【翻訳】小さなイカサマ、大きな代償/The Danger of Small Cheats【SCG】
Sam Stoddard
2010年11月19日
元記事:http://www.starcitygames.com/magic/fundamentals/20564_The_Danger_of_Small_Cheats.html
我らが偉大なるボス、Ted Knutsonが数年前に書いた記事(註)は、マジック界における特に目立ったイカサマを取り上げたものだった。あの当時から私たちも随分と成長した。確かにシャッフルや積み込みに類する「技」はまだ存在しているとはいえ、より知識を蓄えたジャッジや観客によって減少していることは間違いない。
しかしマジックからイカサマが消えたわけではない。まだまだいくらでもその辺に転がっている。幸い、もうデュアルランドであるかのようにダメージランドを使われる心配はなくなったが、まだ私たちにはライフを支払ったり支払わなかったりするフェッチランドが存在する(もっともこれはダメージランドに比べるとずっと摘発しやすいイカサマではあるが)(註)。
4つの束に分けるシャッフル、シャッフルしたように見せかけるフェイクシャッフル、こっそり追加でドローする、などのイカサマはプレイヤーである君たち自身の注意で防げる。何らかの物理的なイカサマが行われるとき、そこには必ず付け入る隙がある。必ず何らかの証拠が残るはずだ。
ここで挙げたいのは、まったく違った次元のイカサマの話だ。それは基本的に決してバレることのないささやかなイカサマだ。
これは私のマジックを始めた頃の話だ。テンペスト・ストロングホールドのリミテッドによるPTQが開催されていた。私のシールドデッキはなかなかの強さの赤白で、1ラウンド目は簡単に勝てた。このころ私はリミテッドで負ける気がしなかった。
なぜならシールドで引くデッキがなぜか毎回のように「Sam Stoddardのためにあつらえたような」もので、さらに平均的なプレイヤーのレベルは非常に低かったからだ。なんというか、47枚デッキに15枚の土地を放り込むようなレベルだった。平均で6ラウンドかかるPTQもまったく苦にならなかった。ベスト8は当たり前だったので、優勝するのもそう遠くはないことだろうと思っていた。
今回のPTQでの2ラウンド目も、1ゲーム目はあっさり勝てた。ただ2ゲーム目はそうはいかなかった。対戦相手がこっちの2対1交換やら場に見えてるカードによるトリックやらに全力で引っかかってくれているというのに、私は大量に土地を引き続けてしまい、戦況は思わしくなかった。
私の残りライフは7点しかなく、相手の場には《流動石のやっかいもの/Flowstone Mauler》がいる。対戦相手がパンプすることさえ忘れなければ、一撃であの世行きだ。私はひたすらチャンプブロッカーを引き続ける羽目になり、クリーチャー除去をトップデッキすることに一縷の望みをかけた。かわりに私が引いたのは《低地の巨人/Lowland Giant》だった。
なんてこった。
対戦相手が攻撃してきて、私はチャンプブロックを行い、私の巨人は墓地に落ちた。そして対戦相手は……彼の《流動石のやっかいもの/Flowstone Mauler》を墓地に落とし、ターンを終了した。私は対戦相手が自身のクリーチャーを墓地に送ってしまうようなトリックを一切していない。ただその間違いを指摘しなかっただけだ。
私の名前はSam Stoddard。そう、マジックでイカサマをしたことがある男だ。
ああ、これは確かに《闇への追放/Dark Banishing》をこっそり墓地から引っこ抜いて唱えるほどのことではない。しかし結果は同じだ。私は勝ちを拾いに行った。自身の品位のみならず、ゲームの品位をも代償にして、だ。作為的な反則という奴だ。私は起こるべきでないことが起きたことを知りつつ、それを訂正することなく最大限に利を得ようとした。
問題は私たちが愛するこのマジックというゲーム自体が、より深くのめりこむに従ってルールの穴をつくよう求めてくるということだ。
私たちは眼前に用意された複雑に絡み合うシステムを凝視し、どうすればずる賢く手間を省けるかに熱中する。召喚に15マナかかるクリーチャーを見た瞬間に思うことは「さて、こいつを戦場に出すのには何マナかかるかな?」だ。《復讐蔦/Vengevine》を見たとき我々は「この4/3で速攻のクリーチャーが持ってる2つ目の能力は、たまに役立つかもな」とは考えない。かわりに「できるかぎり最速でこいつを墓地に落として戦場に出す方法はないものかね」と考える。
私たちは有利さを得るためにありとあらゆる場所に目をこらす。私たちは腕を上げるにつれて、いつが呪文を唱えるべき最適な瞬間なのかを学び、ランダム性による被害を最小に抑えられる呪文と土地とクリーチャーの割合を学び、カードを引くことやチューターの重要性を学び、その他色々を学ぶ。
どこかの時点で、私たちは正しく物事を行うためのキーワードを学ぶ。それは例えば「対応して~」や「あなたのアップキープ時に~」や、今は無き「ダメージ割り振りにスタックして~」などだ。
しかしどこかの時点で、勝率を高めてくれる新たな知識という名の道筋が表通りのどこにも見つからなくなり始めてしまう。そのとき、つい薄暗い裏路地に足を踏み入れてしまったとしてもそれは驚くようなことじゃない。
私は君たちを悪の道に引き込もうとしているわけではない。ただ私の言うことにも一理あると考えてもらえるとありがたい。そして私が寛容な人間だと言うことも。
ただ引きたいカードをてっぺんに乗せただけで、デッキをカットしなかったとしたらそれは対戦相手の責任であり、これは積み込みではないはず……さて、これはイカサマのように見えるし、実際にイカサマだ。しかし、《変異種/Morphling》で5/5をブロックして致死ダメージを与えつつも自身は生き残るなんて芸当は、ダメージ割り振りがスタックに乗るということを理解してない人から見たらイカサマとしか思えないだろう(註)。
多くのプレイヤーにとって、どうやればトーナメントルールの網の目をかいくぐれるか、というのはそれ自体がゲームの一部なのだ。
さて難しいのは、可能性という道のりのなかでどこまでが許容される範囲で、どこからイカサマが始まるのか、という判断だ。ひざの上に《Cadaverous Bloom / 死体の花》(訳註)を隠しておくのは、間違いなくイカサマだ。
対戦相手のデッキからカードを1枚抜いて足元に落とし、テーブルの下まで蹴り飛ばした挙句にジャッジを呼び「このデッキ、カードが足りないと思うんだけど」というのは、ああ、もちろんイカサマだ。議論の余地すらない。
デッキを均等にランダム化するためのシャッフル中や、簡易的なリフルシャッフル中や、相手にデッキを見せているときに自分のデッキのカードをそれとなく見ることは? それもイカサマだ。
じゃあ例えば対戦相手が1ゲーム目のためにシャッフルしているときに、あわよくば何枚かカードが見えないかな、と注意を払っておくことは? ルール的には合法だ。ただ見るための距離や時間の長さによってはイカサマにもなりうる。
Olivier Ruelはかなり玄人好みな方法でこれを行ったため、失格の裁定を受けている(註)。この裁定は重いようにも感じるが、それはさておき相手のデッキへ必要以上に興味の視線を向け過ぎているプレイヤーをたまに見かけることは事実だ。
困ったことに、多くのプレイヤーはこれらのイカサマを信号無視程度にしかとらえておらず、デッキの積み込みと同じレベルの不名誉であることを認識していない。さらには、呪文や能力の解決についてミスをしたり勘違いをしたるする相手と対戦したことを自慢の種にする人たちすらいる。
もし私たちが、今後もマジックを競技の場としてふさわしいものであって欲しいと望むのであれば、ゲーム内で実践される誠実さと公平さの向上を常に継続していくよう心がけないといけない。
マジックというゲームにおいて何が許容され、何が許容されないのか、皆に見えるように線が引かれるべきで、かつそのことがコミュニティに浸透すべきだ。ときたま、そのことによって利益を失うことになるかもしれない。しかし多くの場合、それは決して手にしてはならない利益なのだ。
君が公認試合の席に座ったとき、君はルールが適切に適用され場の完全性がたもたれるようベストを尽くすことを義務付けられる。例え、それが君にとって不都合なことで不利益を被ることになろうとも、だ。
誰だって間違いを犯すだから君が意図せずしてミスをおかすことだってあるだろう。しかしもしそのミスに気づいたなら、君は気づいたそのときにジャッジを呼ばなくてはならない。そうしてもらうことでジャッジは試合を正しい状態へ戻したり、適切なペナルティを両プレイヤーへ科したりすることができる。
プレイヤーとして成長するということには、自身の行動から生じる責任を受け入れるということが含まれる。そうする必要がないときもだ。対戦相手が勘違いから犯してしまったミスをそのまま見過ごしていれば勝つことができた試合が、私のマジックのキャリアの中でいくつあったか。多すぎてとても全てを教えてあげることはできない。
もし君が100人のプレイヤーに「イカサマ師とプレイしたいか?」と尋ねれば、きっと100人が「ノー」と答えるだろう。もし君が100人のプレイヤーに「去年、イカサマをしたか?」と尋ねれば、きっと90人かそれ以上が「ノー」と答えるだろう。君自身も「ノー」と言うかもしれない。
さてちょっとしたお願いがある。以下のリストを読んで、過去に該当する行為をおこなったことがあるかどうか見て欲しい。
もし君が一定以上の期間、トーナメントでマジックをプレイした経験があるのであれば、最低でも1つは該当するだろうし、おそらくは2つ以上該当したことだろう。それだけでなく、君はもしかしたらこれらの行為を(イカサマだと疑うことなく)合法だと思いつつ実行していたかもしれない。
ルールを破っていることに気づいていた、もしくは、意図的に対戦相手がルールを破っているのを見過ごしていたのであれば、君はイカサマをしていたことになる。
上記の例となった行為が問題となるのは、それらの多くが、ただの軽い間違いだった、と簡単に偽れるということだ。これらの多くはまるで被害者が存在しないかのように見える。そう、暗闇で見知らぬ相手を殴るようなものだ。
さらに困ったことに、もし現場を押さえられたとしても無知からくるミスだとして逃げ切れる可能性がある。繰り返せばレッドカードも出るかもしれないが、そこまでいくことは極めてまれだ。不幸なことに、マジックというゲームのルール自体がこういった行為を推奨しているかのように解釈される危険性がある。
ここで、有名なゲーム理論の概念の1つである「囚人のジレンマ」が思い起こされる。
まず2人の罪人がいる。警察は彼らそれぞれに2つの選択肢を迫る。もう1人に全ての罪を着せるか、沈黙を守るか、のいずれかだ。もし2人とも「沈黙」を選べば、2人はほんの6ヶ月のあいだ牢屋行きになる。もし2人とも「裏切り」を選べば、2人とも5年のあいだ牢屋行きになる。もし片方が「裏切り」、もう片方が「沈黙」した場合、裏切り者は釈放されるが、沈黙を守った方は10年ものあいだ牢屋行きになる。
さて、場合分けをしてみよう(我ながら恥知らずなことだが、以下、Wikiからの転用だ)。
│ 囚人B 囚人B
│ 沈 黙 裏切り
─────┼───────────────
囚人A │ A:6ヶ月 A:10年
沈 黙 │ B:6ヶ月 B:釈放
│
囚人A │ A:釈放 A:5年
裏切り │ B:10年 B:5年
この話から何が導き出されるのかというと、この場合、常に「裏切る」のが正解となる、ということだ。裏切った場合、刑期は「0年」もしくは「5年」のどちらかしかない。沈黙を選んだ場合、刑期は「半年」もしくは「10年」のどちらかしかない。相手が裏切る可能性が五分五分だとした場合、期待値は「裏切った場合 = 2.5年」で「沈黙を守った場合 = 5.25年」となる。
これが「囚人のジレンマ」だが、「マジックプレイヤーのジレンマ」となると違った話となってくる。墓地に行くべきでないクリーチャーが墓地に落ちてしまい、かつそれによって利益を得るのが君だったとする。君はそれに気づき、以下のジレンマに悩むこととなった。
│ あなた あなた
│ ジャッジを呼ばない ジャッジを呼ぶ
──────────┼─────────────────────────
対戦相手が │ 罰則なし 警告
気付かない │ (利益を得る) (利益を得ない)
│
対戦相手が │ 警告 警告
気がついて │ (利益を得ない) (利益を得ない)
ジャッジを呼ぶ │
君がモラルなど気にしない人間であった場合、そう簡単にはジャッジを呼ばないだろう。ジャッジが呼ばれない可能性は大きく、仮に呼ばれたとしても、単に頭が悪くて気がつかなかったという風に振舞えば逃げおおせるだろう。
しかしこれは他の側面を無視している。例えば、君自身は自分がイカサマをしたことを知っているということや、社会的な側面だ。そしてそれは本当に無視できるようなことなのだろうか?
君が店番をしていたとしよう。そこへ目の見えない男性が入ってきて、君に5ドルの品と20ドル紙幣を渡した。君は品物と3ドルのお釣りを男性へ手渡し、12ドルをポケットに入れた。彼は気づかないかもしれないし、あとで気づいたとしても君のしわざだと気づくのは難しいかもしれない。しかし、だからといってこれは許される行為なのだろうか?
さらに違反が厳しい場合を考えてみよう。君は盤面ですでに勝っており、あとすべきことはアタックのみだ。そこで君はサイドボードにあるべきカードを引いてしまった。ここでは例として、サイドに4枚目を置いておくようなメインデッキにふさわしいカードではなく、明らかなサイドボードカードを引いたものとしよう。今回の場合分けは以下の通りだ。
│ あなた あなた
│ ジャッジを呼ばない ジャッジを呼ぶ
──────────┼─────────────────────────
対戦相手が │
気付かない │ ゲームに勝利する ゲームロス
│
対戦相手が │
気がついて │ おそらくDQ (失格) ゲームロス
ジャッジを呼ぶ │
さて少しばかりさっきより難しい状況になった。もし君がジャッジを呼んだ場合、ほぼ間違いなくこの試合はゲームロスとなるだろう。もし君が沈黙を選んだ場合、君はこのゲームに勝利する。
自己申告せず、かつ、対戦相手か誰かに気づかれてジャッジを呼ばれた場合のペナルティはかなり重いが、それを知っていてもなお多くのプレイヤーは自らジャッジを呼んだりはしないだろう。彼らは残り全てのサイドボードをデッキに混ぜ込み、2ゲーム目のためにシャッフルし、何事もなかったかのように振舞うだろう。
このような状況下ではジャッジを呼ばずに済ますことは簡単だからとか、不正を犯すリスクが低いからとか、そういった理由で誠実に振舞うかどうかを決めてはならない。
重要なのは、君がそうしなければならないのはそれが正しいことであるからであり、そうしなかった場合にペナルティを受ける恐れがあるからではないということを理解しなくてはならない。
マジックのコミュニティはフェアプレイの元に発展するものであり、不正を行う人間の数が少なければ少ないほど、全てのプレイヤーはよりゲームを楽しめることになる。
イカサマが横行していた時代にマジックをプレイしていなかった? よろしい、ならば教えてあげよう。あれは本当にひどい時代だった。君は相手が何かしでかさないか目を皿のようにして見張り、対戦する全ての相手を疑ってかかる必要があり、相手を疑わずに済むのは彼が正直者だという確かな評判を持っていた場合のみだった。
何が最悪だったかというと、勝率の高いプレイヤーたちは大抵イカサマをしていた。大小に関わらず、大会の雰囲気は今よりもずっと暗いものだった。負けたとき、君の頭にまず浮かぶのは、イカサマされたに違いない、という疑念であり、正々堂々と戦って負けたなどとは考えられなかった。私は自分の余暇をそんなことのために使いたいとは思わないし、君も同じ考えだと願っている。
過去の私の誤った行いに立ち返るに、してしまったことに対してはいくつでも言い訳を思いつける。私はまだ16歳だったし、対戦相手に相手がカードをどう扱うべきか教える義務は無かったし、彼のプレイングがひどいことを指摘する義務もなかったし、私は勝つにふさわしいプレイヤーだった。当時の一般的なプレイヤーの考え方は「対戦相手のためにゲームをしてるわけじゃない。相手がミスをしたら、それは奴の責任だ」だった。
もっとも私に彼らを責めることはできない。私自身、同じことをしていたとき、私はそれが正しくないことを知っていた。私はただ勝ちたかった。
それを受け入れなければならない。
問題となった試合で3ゲーム目が終わったとき、結局私は負けたがそれはどうでもいい。もし勝っていたら、それは不正で勝ったということだ。そこに価値はない。勝利はマジックにおいて重要なものだ。ただし、それが公正に得られたものである場合のみだ。誠実さを欠いた勝利は、敗北よりずっと悪いものだ。
私の中では、私個人よりもマジックというゲームのほうがより大きい比重を占めている。私はルールとフェアプレーの高潔な精神に敬意を表している。
これらは1ターンよりも、1ゲームよりも、1つのトーナメントよりも重要なものだ。だからこそ勝利をつかんだときにそれを心から喜ぶことができる。自身がそれにふさわしいと信じられるからだ。
競技マジックが今後も存続し私たちを試し続けるなら、私たちはゲームのルールと法をもっとも重要な基準として心に抱き続ける必要がある。そうしなければ私たちは「マジックザギャザリング "誰がもっと上手くイカサマできるか"選手権」を競い続けることになるだけだ。
私たちはコミュニティのメンバーとして、愛するマジックとゲームがよりフェアで公平に行われるように後押ししなければならない。
そのためには、イカサマという世界が皆が思っているよりもより広い世界をさすのだということを啓蒙し広める必要がある。なぜ対戦相手がよそを向いている隙に追加でカードを引き増すことが悪いことなのかをいちいち説明しなくてもよい世界になるよう、私は願っている。
だが、これが意図的な失敗や小さなイカサマとなると、同じようなアプローチがとれるかどうか自信がない。とにかくグレーゾーンというものはそこかしこにあり、「イカサマ」に対して「余裕のないプレイ」や「あまりにも堂々としたブラフ」は、特に新規プレイヤーたちからすると、表面上非常に似通ってみる部分がある。
だからこそ全てのプレイヤー、そして特に熟練者として高い評価を得ているプレイヤーに、公正であることでも高い評価をもっていることが重要なのだ。
もし君が行きつけの店の「よいプレイヤー」であり、同時に自身の行為を適切に報告する習慣を持っているのであれば、君を指針と見るプレイヤーたちも同じようにふるまうことを覚えるだろう。
自身がそうであったからこそ良く分かることだが、正直にプレイし競技に対しフェアであろうとすることはより良いプレイヤーになるための非常に大きな足掛かりとなる。
そうすることで、私はより緊張感を持ち厳密にプレイするようになり、そのようにプレイできなかったときの自身のプレイミスを素直に認められるになった。一度でもそのように振舞えるようになれば、さらにそれを向上させていくことも出来るはずだ。
長い時間をかけて私は、より勝ちたいと願うならば誠実な努力を重ねるべきであり、物事を少しばかりごまかすことではそこには到達できない、ということを学んだ。
全てのグレーゾーンな行為は、所詮自分より弱いプレイヤーにしか通用しない技に過ぎない。私はそれらに背を向けることで、どのような対戦相手にも通用する本当の技を磨かざるをえないようになれたのだ。
Sam Stoddard
2010年11月19日
元記事:http://www.starcitygames.com/magic/fundamentals/20564_The_Danger_of_Small_Cheats.html
我らが偉大なるボス、Ted Knutsonが数年前に書いた記事(註)は、マジック界における特に目立ったイカサマを取り上げたものだった。あの当時から私たちも随分と成長した。確かにシャッフルや積み込みに類する「技」はまだ存在しているとはいえ、より知識を蓄えたジャッジや観客によって減少していることは間違いない。
(註) Ted Knutsonが数年前に書いた記事
原文では以下のURLへリンクが張られている。記事では様々なイカサマとそれに対処する方法が紹介されている。古い記事ではあるけど(今回の記事と同じく)内容は今も通用する。
http://www.starcitygames.com/magic/fundamentals/8595_The_Magic_University_Cheaters_Always_Prosper.html
しかしマジックからイカサマが消えたわけではない。まだまだいくらでもその辺に転がっている。幸い、もうデュアルランドであるかのようにダメージランドを使われる心配はなくなったが、まだ私たちにはライフを支払ったり支払わなかったりするフェッチランドが存在する(もっともこれはダメージランドに比べるとずっと摘発しやすいイカサマではあるが)(註)。
(註) デュアルランドであるかのようにダメージランドを使われる
マナを生みだす際に1ダメージくらう土地を起動した際にダメージを記録するのを忘れたふりをするイカサマ。このあとのフェッチランドうんぬんについても同様。
4つの束に分けるシャッフル、シャッフルしたように見せかけるフェイクシャッフル、こっそり追加でドローする、などのイカサマはプレイヤーである君たち自身の注意で防げる。何らかの物理的なイカサマが行われるとき、そこには必ず付け入る隙がある。必ず何らかの証拠が残るはずだ。
ここで挙げたいのは、まったく違った次元のイカサマの話だ。それは基本的に決してバレることのないささやかなイカサマだ。
これは私のマジックを始めた頃の話だ。テンペスト・ストロングホールドのリミテッドによるPTQが開催されていた。私のシールドデッキはなかなかの強さの赤白で、1ラウンド目は簡単に勝てた。このころ私はリミテッドで負ける気がしなかった。
なぜならシールドで引くデッキがなぜか毎回のように「Sam Stoddardのためにあつらえたような」もので、さらに平均的なプレイヤーのレベルは非常に低かったからだ。なんというか、47枚デッキに15枚の土地を放り込むようなレベルだった。平均で6ラウンドかかるPTQもまったく苦にならなかった。ベスト8は当たり前だったので、優勝するのもそう遠くはないことだろうと思っていた。
今回のPTQでの2ラウンド目も、1ゲーム目はあっさり勝てた。ただ2ゲーム目はそうはいかなかった。対戦相手がこっちの2対1交換やら場に見えてるカードによるトリックやらに全力で引っかかってくれているというのに、私は大量に土地を引き続けてしまい、戦況は思わしくなかった。
私の残りライフは7点しかなく、相手の場には《流動石のやっかいもの/Flowstone Mauler》がいる。対戦相手がパンプすることさえ忘れなければ、一撃であの世行きだ。私はひたすらチャンプブロッカーを引き続ける羽目になり、クリーチャー除去をトップデッキすることに一縷の望みをかけた。かわりに私が引いたのは《低地の巨人/Lowland Giant》だった。
なんてこった。
対戦相手が攻撃してきて、私はチャンプブロックを行い、私の巨人は墓地に落ちた。そして対戦相手は……彼の《流動石のやっかいもの/Flowstone Mauler》を墓地に落とし、ターンを終了した。私は対戦相手が自身のクリーチャーを墓地に送ってしまうようなトリックを一切していない。ただその間違いを指摘しなかっただけだ。
私の名前はSam Stoddard。そう、マジックでイカサマをしたことがある男だ。
ああ、これは確かに《闇への追放/Dark Banishing》をこっそり墓地から引っこ抜いて唱えるほどのことではない。しかし結果は同じだ。私は勝ちを拾いに行った。自身の品位のみならず、ゲームの品位をも代償にして、だ。作為的な反則という奴だ。私は起こるべきでないことが起きたことを知りつつ、それを訂正することなく最大限に利を得ようとした。
問題は私たちが愛するこのマジックというゲーム自体が、より深くのめりこむに従ってルールの穴をつくよう求めてくるということだ。
私たちは眼前に用意された複雑に絡み合うシステムを凝視し、どうすればずる賢く手間を省けるかに熱中する。召喚に15マナかかるクリーチャーを見た瞬間に思うことは「さて、こいつを戦場に出すのには何マナかかるかな?」だ。《復讐蔦/Vengevine》を見たとき我々は「この4/3で速攻のクリーチャーが持ってる2つ目の能力は、たまに役立つかもな」とは考えない。かわりに「できるかぎり最速でこいつを墓地に落として戦場に出す方法はないものかね」と考える。
私たちは有利さを得るためにありとあらゆる場所に目をこらす。私たちは腕を上げるにつれて、いつが呪文を唱えるべき最適な瞬間なのかを学び、ランダム性による被害を最小に抑えられる呪文と土地とクリーチャーの割合を学び、カードを引くことやチューターの重要性を学び、その他色々を学ぶ。
どこかの時点で、私たちは正しく物事を行うためのキーワードを学ぶ。それは例えば「対応して~」や「あなたのアップキープ時に~」や、今は無き「ダメージ割り振りにスタックして~」などだ。
しかしどこかの時点で、勝率を高めてくれる新たな知識という名の道筋が表通りのどこにも見つからなくなり始めてしまう。そのとき、つい薄暗い裏路地に足を踏み入れてしまったとしてもそれは驚くようなことじゃない。
私は君たちを悪の道に引き込もうとしているわけではない。ただ私の言うことにも一理あると考えてもらえるとありがたい。そして私が寛容な人間だと言うことも。
ただ引きたいカードをてっぺんに乗せただけで、デッキをカットしなかったとしたらそれは対戦相手の責任であり、これは積み込みではないはず……さて、これはイカサマのように見えるし、実際にイカサマだ。しかし、《変異種/Morphling》で5/5をブロックして致死ダメージを与えつつも自身は生き残るなんて芸当は、ダメージ割り振りがスタックに乗るということを理解してない人から見たらイカサマとしか思えないだろう(註)。
(註)《変異種/Morphling》で5/5をブロックして致死ダメージを与えつつも自身は生き残る
現在のルールではダメージの割り振りをスタックに積まなくなったので、この芸当はできなくなっている。
多くのプレイヤーにとって、どうやればトーナメントルールの網の目をかいくぐれるか、というのはそれ自体がゲームの一部なのだ。
さて難しいのは、可能性という道のりのなかでどこまでが許容される範囲で、どこからイカサマが始まるのか、という判断だ。ひざの上に《Cadaverous Bloom / 死体の花》(訳註)を隠しておくのは、間違いなくイカサマだ。
(訳註) 《Cadaverous Bloom / 死体の花》
原文では「Prosperous Bloom」となっていたがこれはデッキ名なのでおそらくタイプミスか何かかと思われる。さすがにひざにデッキを1つ丸ごと隠しておくイカサマはないはず。
対戦相手のデッキからカードを1枚抜いて足元に落とし、テーブルの下まで蹴り飛ばした挙句にジャッジを呼び「このデッキ、カードが足りないと思うんだけど」というのは、ああ、もちろんイカサマだ。議論の余地すらない。
デッキを均等にランダム化するためのシャッフル中や、簡易的なリフルシャッフル中や、相手にデッキを見せているときに自分のデッキのカードをそれとなく見ることは? それもイカサマだ。
じゃあ例えば対戦相手が1ゲーム目のためにシャッフルしているときに、あわよくば何枚かカードが見えないかな、と注意を払っておくことは? ルール的には合法だ。ただ見るための距離や時間の長さによってはイカサマにもなりうる。
Olivier Ruelはかなり玄人好みな方法でこれを行ったため、失格の裁定を受けている(註)。この裁定は重いようにも感じるが、それはさておき相手のデッキへ必要以上に興味の視線を向け過ぎているプレイヤーをたまに見かけることは事実だ。
(註) Olivier Ruelはかなり玄人好みな方法でこれを行った
Olivier Ruelは2007年に開催されたGPブリスベンで、対戦相手のサングラスに相手の手札が写っているのを読みとろうと凝視していたところをヘッドジャッジにみとがめられ、失格の裁定を受けている。
GPブリスベン・カバレージ(英語)
http://www.wizards.com/Magic/Magazine/Events.aspx?x=mtgevent/gpbri07/blog2
マジック・インビテーショナル2007参戦記 後編(日本語)
http://mtg.takaratomy.co.jp/others/column/nakamura/20071130/index.html
困ったことに、多くのプレイヤーはこれらのイカサマを信号無視程度にしかとらえておらず、デッキの積み込みと同じレベルの不名誉であることを認識していない。さらには、呪文や能力の解決についてミスをしたり勘違いをしたるする相手と対戦したことを自慢の種にする人たちすらいる。
もし私たちが、今後もマジックを競技の場としてふさわしいものであって欲しいと望むのであれば、ゲーム内で実践される誠実さと公平さの向上を常に継続していくよう心がけないといけない。
マジックというゲームにおいて何が許容され、何が許容されないのか、皆に見えるように線が引かれるべきで、かつそのことがコミュニティに浸透すべきだ。ときたま、そのことによって利益を失うことになるかもしれない。しかし多くの場合、それは決して手にしてはならない利益なのだ。
君が公認試合の席に座ったとき、君はルールが適切に適用され場の完全性がたもたれるようベストを尽くすことを義務付けられる。例え、それが君にとって不都合なことで不利益を被ることになろうとも、だ。
誰だって間違いを犯すだから君が意図せずしてミスをおかすことだってあるだろう。しかしもしそのミスに気づいたなら、君は気づいたそのときにジャッジを呼ばなくてはならない。そうしてもらうことでジャッジは試合を正しい状態へ戻したり、適切なペナルティを両プレイヤーへ科したりすることができる。
プレイヤーとして成長するということには、自身の行動から生じる責任を受け入れるということが含まれる。そうする必要がないときもだ。対戦相手が勘違いから犯してしまったミスをそのまま見過ごしていれば勝つことができた試合が、私のマジックのキャリアの中でいくつあったか。多すぎてとても全てを教えてあげることはできない。
もし君が100人のプレイヤーに「イカサマ師とプレイしたいか?」と尋ねれば、きっと100人が「ノー」と答えるだろう。もし君が100人のプレイヤーに「去年、イカサマをしたか?」と尋ねれば、きっと90人かそれ以上が「ノー」と答えるだろう。君自身も「ノー」と言うかもしれない。
さてちょっとしたお願いがある。以下のリストを読んで、過去に該当する行為をおこなったことがあるかどうか見て欲しい。
その1:
対戦相手が死んでないはずの彼のクリーチャーを墓地に置くのを止めなかった。
その2:
カードを引いたとき誤って次のカードまで見てしまったがジャッジを呼ばなかった。
その3:
1ゲーム目の最中にサイドボードのカードを引いたことに気づいたが、単にそれをプレイしないことでしのぐことにした。
その4:
対戦相手の手元に見える君のライフの総数が君のメモした値よりも高いことに気づいたので、詳細を調査せずに君のメモの値をその高い値へ合わせた。
その5:
対戦相手が示すライフの総数が君のメモした値よりも低いことに気づいたので、詳細を調査せずに君のメモの値をその低い値へ合わせた。
その6:
ドラフトで隣へパックを回すとき、君がどの色に参戦している/していないを示すために、パックの内容を教えた。
その7:
時計の残り時間が10秒しかなかったのでフェッチランドを起動したあとの土地の捜索とシャッフルに普段より数秒長く時間をかけた。
その8:
対戦相手が《吠えたける鉱山/Howling Mine》の追加ドローを忘れているのに気づいたが指摘しなかった。
その9:
対戦相手がフェッチランドをプレイし、起動してから《板金鎧の土百足/Plated Geopede》で攻撃してきたときに「3点で」というのを訂正しなかった。
その10:
1ゲーム目の最中、君はデッキの土地が全て他のカードと少し異なる背面をしている(もしくは土地だけ特にスリーブがすりきれている)ことに気づいたが、特に何も報告せずに次のラウンド前に全て適切なものと交換した。
その11:
カウンターが0個の《漸増爆弾/Ratchet Bomb》を起動したにも関わらず、自身の《永遠溢れの杯/Everflowing Chalice》を破壊し忘れていたことに起動後2ターン経ってから気がついたがジャッジを呼ばなかった。
その12:
対戦相手がマナ織り込み/Mana Weave(註)を行っていたので、逆にそれを利用してこちらがシャッフルする際に相手の土地を全てデッキの下へ送ろうとした。(註) マナ織り込み/Mana Weave
土地とそれ以外のカードを別の山にして、土地をバランスよく混ぜ込んでいく山札の準備方法。大会でやると罰則がある。以下のリンク先に説明がある。
Shuffling Dos & Don’ts(してもよいシャッフル、してはならないシャッフル)
http://www.wizards.com/Magic/Magazine/Article.aspx?x=judge/article/20060707a
もし君が一定以上の期間、トーナメントでマジックをプレイした経験があるのであれば、最低でも1つは該当するだろうし、おそらくは2つ以上該当したことだろう。それだけでなく、君はもしかしたらこれらの行為を(イカサマだと疑うことなく)合法だと思いつつ実行していたかもしれない。
ルールを破っていることに気づいていた、もしくは、意図的に対戦相手がルールを破っているのを見過ごしていたのであれば、君はイカサマをしていたことになる。
上記の例となった行為が問題となるのは、それらの多くが、ただの軽い間違いだった、と簡単に偽れるということだ。これらの多くはまるで被害者が存在しないかのように見える。そう、暗闇で見知らぬ相手を殴るようなものだ。
さらに困ったことに、もし現場を押さえられたとしても無知からくるミスだとして逃げ切れる可能性がある。繰り返せばレッドカードも出るかもしれないが、そこまでいくことは極めてまれだ。不幸なことに、マジックというゲームのルール自体がこういった行為を推奨しているかのように解釈される危険性がある。
ここで、有名なゲーム理論の概念の1つである「囚人のジレンマ」が思い起こされる。
まず2人の罪人がいる。警察は彼らそれぞれに2つの選択肢を迫る。もう1人に全ての罪を着せるか、沈黙を守るか、のいずれかだ。もし2人とも「沈黙」を選べば、2人はほんの6ヶ月のあいだ牢屋行きになる。もし2人とも「裏切り」を選べば、2人とも5年のあいだ牢屋行きになる。もし片方が「裏切り」、もう片方が「沈黙」した場合、裏切り者は釈放されるが、沈黙を守った方は10年ものあいだ牢屋行きになる。
さて、場合分けをしてみよう(我ながら恥知らずなことだが、以下、Wikiからの転用だ)。
│ 囚人B 囚人B
│ 沈 黙 裏切り
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囚人A │ A:6ヶ月 A:10年
沈 黙 │ B:6ヶ月 B:釈放
│
囚人A │ A:釈放 A:5年
裏切り │ B:10年 B:5年
この話から何が導き出されるのかというと、この場合、常に「裏切る」のが正解となる、ということだ。裏切った場合、刑期は「0年」もしくは「5年」のどちらかしかない。沈黙を選んだ場合、刑期は「半年」もしくは「10年」のどちらかしかない。相手が裏切る可能性が五分五分だとした場合、期待値は「裏切った場合 = 2.5年」で「沈黙を守った場合 = 5.25年」となる。
これが「囚人のジレンマ」だが、「マジックプレイヤーのジレンマ」となると違った話となってくる。墓地に行くべきでないクリーチャーが墓地に落ちてしまい、かつそれによって利益を得るのが君だったとする。君はそれに気づき、以下のジレンマに悩むこととなった。
│ あなた あなた
│ ジャッジを呼ばない ジャッジを呼ぶ
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対戦相手が │ 罰則なし 警告
気付かない │ (利益を得る) (利益を得ない)
│
対戦相手が │ 警告 警告
気がついて │ (利益を得ない) (利益を得ない)
ジャッジを呼ぶ │
君がモラルなど気にしない人間であった場合、そう簡単にはジャッジを呼ばないだろう。ジャッジが呼ばれない可能性は大きく、仮に呼ばれたとしても、単に頭が悪くて気がつかなかったという風に振舞えば逃げおおせるだろう。
しかしこれは他の側面を無視している。例えば、君自身は自分がイカサマをしたことを知っているということや、社会的な側面だ。そしてそれは本当に無視できるようなことなのだろうか?
君が店番をしていたとしよう。そこへ目の見えない男性が入ってきて、君に5ドルの品と20ドル紙幣を渡した。君は品物と3ドルのお釣りを男性へ手渡し、12ドルをポケットに入れた。彼は気づかないかもしれないし、あとで気づいたとしても君のしわざだと気づくのは難しいかもしれない。しかし、だからといってこれは許される行為なのだろうか?
さらに違反が厳しい場合を考えてみよう。君は盤面ですでに勝っており、あとすべきことはアタックのみだ。そこで君はサイドボードにあるべきカードを引いてしまった。ここでは例として、サイドに4枚目を置いておくようなメインデッキにふさわしいカードではなく、明らかなサイドボードカードを引いたものとしよう。今回の場合分けは以下の通りだ。
│ あなた あなた
│ ジャッジを呼ばない ジャッジを呼ぶ
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対戦相手が │
気付かない │ ゲームに勝利する ゲームロス
│
対戦相手が │
気がついて │ おそらくDQ (失格) ゲームロス
ジャッジを呼ぶ │
さて少しばかりさっきより難しい状況になった。もし君がジャッジを呼んだ場合、ほぼ間違いなくこの試合はゲームロスとなるだろう。もし君が沈黙を選んだ場合、君はこのゲームに勝利する。
自己申告せず、かつ、対戦相手か誰かに気づかれてジャッジを呼ばれた場合のペナルティはかなり重いが、それを知っていてもなお多くのプレイヤーは自らジャッジを呼んだりはしないだろう。彼らは残り全てのサイドボードをデッキに混ぜ込み、2ゲーム目のためにシャッフルし、何事もなかったかのように振舞うだろう。
このような状況下ではジャッジを呼ばずに済ますことは簡単だからとか、不正を犯すリスクが低いからとか、そういった理由で誠実に振舞うかどうかを決めてはならない。
重要なのは、君がそうしなければならないのはそれが正しいことであるからであり、そうしなかった場合にペナルティを受ける恐れがあるからではないということを理解しなくてはならない。
マジックのコミュニティはフェアプレイの元に発展するものであり、不正を行う人間の数が少なければ少ないほど、全てのプレイヤーはよりゲームを楽しめることになる。
イカサマが横行していた時代にマジックをプレイしていなかった? よろしい、ならば教えてあげよう。あれは本当にひどい時代だった。君は相手が何かしでかさないか目を皿のようにして見張り、対戦する全ての相手を疑ってかかる必要があり、相手を疑わずに済むのは彼が正直者だという確かな評判を持っていた場合のみだった。
何が最悪だったかというと、勝率の高いプレイヤーたちは大抵イカサマをしていた。大小に関わらず、大会の雰囲気は今よりもずっと暗いものだった。負けたとき、君の頭にまず浮かぶのは、イカサマされたに違いない、という疑念であり、正々堂々と戦って負けたなどとは考えられなかった。私は自分の余暇をそんなことのために使いたいとは思わないし、君も同じ考えだと願っている。
過去の私の誤った行いに立ち返るに、してしまったことに対してはいくつでも言い訳を思いつける。私はまだ16歳だったし、対戦相手に相手がカードをどう扱うべきか教える義務は無かったし、彼のプレイングがひどいことを指摘する義務もなかったし、私は勝つにふさわしいプレイヤーだった。当時の一般的なプレイヤーの考え方は「対戦相手のためにゲームをしてるわけじゃない。相手がミスをしたら、それは奴の責任だ」だった。
もっとも私に彼らを責めることはできない。私自身、同じことをしていたとき、私はそれが正しくないことを知っていた。私はただ勝ちたかった。
それを受け入れなければならない。
問題となった試合で3ゲーム目が終わったとき、結局私は負けたがそれはどうでもいい。もし勝っていたら、それは不正で勝ったということだ。そこに価値はない。勝利はマジックにおいて重要なものだ。ただし、それが公正に得られたものである場合のみだ。誠実さを欠いた勝利は、敗北よりずっと悪いものだ。
私の中では、私個人よりもマジックというゲームのほうがより大きい比重を占めている。私はルールとフェアプレーの高潔な精神に敬意を表している。
これらは1ターンよりも、1ゲームよりも、1つのトーナメントよりも重要なものだ。だからこそ勝利をつかんだときにそれを心から喜ぶことができる。自身がそれにふさわしいと信じられるからだ。
競技マジックが今後も存続し私たちを試し続けるなら、私たちはゲームのルールと法をもっとも重要な基準として心に抱き続ける必要がある。そうしなければ私たちは「マジックザギャザリング "誰がもっと上手くイカサマできるか"選手権」を競い続けることになるだけだ。
私たちはコミュニティのメンバーとして、愛するマジックとゲームがよりフェアで公平に行われるように後押ししなければならない。
そのためには、イカサマという世界が皆が思っているよりもより広い世界をさすのだということを啓蒙し広める必要がある。なぜ対戦相手がよそを向いている隙に追加でカードを引き増すことが悪いことなのかをいちいち説明しなくてもよい世界になるよう、私は願っている。
だが、これが意図的な失敗や小さなイカサマとなると、同じようなアプローチがとれるかどうか自信がない。とにかくグレーゾーンというものはそこかしこにあり、「イカサマ」に対して「余裕のないプレイ」や「あまりにも堂々としたブラフ」は、特に新規プレイヤーたちからすると、表面上非常に似通ってみる部分がある。
だからこそ全てのプレイヤー、そして特に熟練者として高い評価を得ているプレイヤーに、公正であることでも高い評価をもっていることが重要なのだ。
もし君が行きつけの店の「よいプレイヤー」であり、同時に自身の行為を適切に報告する習慣を持っているのであれば、君を指針と見るプレイヤーたちも同じようにふるまうことを覚えるだろう。
自身がそうであったからこそ良く分かることだが、正直にプレイし競技に対しフェアであろうとすることはより良いプレイヤーになるための非常に大きな足掛かりとなる。
そうすることで、私はより緊張感を持ち厳密にプレイするようになり、そのようにプレイできなかったときの自身のプレイミスを素直に認められるになった。一度でもそのように振舞えるようになれば、さらにそれを向上させていくことも出来るはずだ。
長い時間をかけて私は、より勝ちたいと願うならば誠実な努力を重ねるべきであり、物事を少しばかりごまかすことではそこには到達できない、ということを学んだ。
全てのグレーゾーンな行為は、所詮自分より弱いプレイヤーにしか通用しない技に過ぎない。私はそれらに背を向けることで、どのような対戦相手にも通用する本当の技を磨かざるをえないようになれたのだ。
コメント
Mike Longの逸話ですね
tp://regear.web.fc2.com/short/MTG_Danger_of_Small_Cheats.htm
比較すると、驚くほど似ているのですが、ご参考にされたのでしょうか?
さておき、最後の表の左下は、"Likely disqualification"です。
あ、そうなんですか。
>名も無き桃さん
すいません、何やら誤解を招いたようですが、驚くほど似ているのは訳した人間が同じだからです。あっちのサイトの末尾に転載した旨、明記しておきました。これで疑いが晴れるとよいんですが……。
あれを訳したときはまだこのブログを作ろうとすら思っていない頃で、まあ、こういうブログを作ったからには一箇所にまとめておこうかなあ、と思った次第です。
表の件は本当にミスです。ご指摘ありがとうございました。