《ドワーフの城塞攻防記》 最終話:ドワーフと人間の城塞
2014年12月20日 ドワーフの城塞 ゲームマーケットで買って来た1人用ゲーム「ドワーフの城塞」が面白いので、紹介がてら短編を書き出してみたら思いのほか長くなってしまった、というのが事の次第。
以下が公式ページ
I Was Game:『ドワーフの城塞』
http://c3ba95dc5fb36b51a14310b783.doorkeeper.jp/events/16376
以下が第1話目から第3話
第1話:リョーマとジェシカ
http://regiant.diarynote.jp/201412041447355994/
第2話:竜鱗甲と勝利の確率
http://regiant.diarynote.jp/201412050218092594/
第3話:分岐する未来
http://regiant.diarynote.jp/201412070750474204/
第1話はフレイバー重視、対して第2話と第3話はシステム面の魅力を重視したもの。そしてこの最終話はどちらも詰め込めるだけ詰め込んでみた。
《ドワーフの城塞攻防記》 最終話:ドワーフと人間の城塞
リョーマはベッドに腰かけると、大きく息をついた。それは目が覚めた瞬間だった。不思議なことに、はっきりと「ドワーフの城塞」のポストカードの内容が思い出せた。
それは、まるで伏せられていた紙を表返したかのようだった。次に襲ってくる敵の名前と強さだけでなくその特殊な能力も含めて全てが見えた。
何かが起きたらしい。しかし今のリョーマにとって重要なのは、その原因ではなく、それがもたらした事実だった。次に襲来する妖魔、その強さと今の戦力。
「このままじゃ勝てない」
ぼそりと呟く。それは次のドラゴンとの対決のことでもあり、その先に控えるさらなる妖魔たちとの戦いとのことでもあった。
リョーマが説明を終えたとき、リンデルとカルガンはしばらく言葉が出なかった。自信ありげというよりも悲壮なまでに覚悟を決めているといった雰囲気のリョーマの顔は嘘をついているようには見えなかったが、しかし。
「ドラゴンは、まだ分かるんじゃが……」
困惑した顔のカルガンの言葉のあとを継いでリンデルが、ビホルダーだと?、と呆然とした口調で呟く。ビホルダーってのは聞き覚えのない名前だネ、とジェシカが正直に言うとリンデルは、もちろん俺も実際に見たことはないが、と前置きして語り出した。
「聞いたことがなくて当然だ。ビホルダーはただの妖魔の名前じゃない。その名前が指すのは世界にたった1体しか存在しない、ある個体の名だ。真のビホルダーは常に単一で、まがいものの存在は決して許されない。決してだ」
異世界の神とも、無の精霊の化身とも噂されるその存在は、口伝によると宙に浮く巨大な眼球の姿をしており、全身から生えた7本の触手の先にはそれぞれ目玉がにらみをきかせているとのことだ。
通常の生物の瞳が前についているのは未来へ向かうためと言われている。過去を背後とし、前に向かい生きていく使命があるからだと。
しかしビホルダーには未来も過去もない。その存在は常にただ1体、今現在にしかない。そのため、いかなる連携を見せようとビホルダーの不意をつくことはできない。予想できない未来がないからだ。殺したものを顧みることもない。過去がないからだ。
加えて、7本の触手の先にある目玉から放たれる光線はそれぞれ違った効果を持ちつつも、そのどれも、浴びた者にありふれた死よりも恐ろしい結末をもたらすと言われている。例えばその1つである石化光線を浴びたものは意識あるままに指先一つ動かせぬ石像と化すらしい。
長大な叙事詩に関わるような歴戦の勇士であっても、その頭を地面にこすりつけ許しを乞う。それがビホルダーという存在だと。
「え? どうするのサ、それ」
あまりのスケールの大きさにどう反応すればよいか分からないジェシカが呟く。
「滅ぼすことはできないが撃退することに成功したという話はいくつか伝え聞いてはいる。要はビホルダーの認識する現在と俺たちを一時的に断ち切るんだ。全ての触手の目玉をつぶした上で最後に眼球をつぶすことでビホルダーは俺たちを認識できなくなり、俺たちもビホルダーを認識できなくなる」
そうして姿を消したビホルダーは少なくとも数十年は再び目撃されることはないらしい、とリンデルは締めくくった。分かっていなかったが、とりあえず分かったふりをしてうなずくジェシカに対し、リョーマは理解しなくてはいけない部分だけを簡潔に述べた。
「要するにユニゾンが効かないんだよ」
「ああ、そういう話」
ようやく笑顔を浮かべたジェシカの横でカルガンはしかめ面で顎鬚をしごいていた。カルガンはビホルダーよりも、ビホルダーの次に襲来するとリョーマが告げた存在のことを考えていた。それは妖魔のくくりに入れられることが多いが、魔と呼ぶにはあまりにも美しく畏怖すべき存在であった。
「神竜か」
ゴールドドラゴン、またの名を神竜。炎と地に生きるドワーフにとって「ドラゴン」とは常に特別な存在であり、そのドラゴン族の頂点に立つゴールドドラゴンは神にも等しい存在だった。
大海に浮かぶ主要な島々(この砦も、それらのうちで比較的大きな島の1つの辺境に位置している)には、それぞれの島ごと、1つの時代に唯1体のゴールドドラゴンが生まれると言われている。そのため目撃された回数だけであればビホルダーの比ではない。しかしゴールドドラゴンと戦った記録はビホルダーのそれよりさらに少ない。神に戦いを挑むものはいない。相対するとき、そこに生じるのは戦いではなかった。
それは証明であった。
「まさかこんな辺境でドラゴンの証を立てることになろうとはのう」
カルガンの口元が緩む。
ドワーフの戦士が真の勇者として認められるにはいくつかの選択肢があった。その1つがドラゴンの証と呼ばれる印である。ゴールドドラゴンが挑まれた者、つまり試すにふさわしいと認められた者は、猛攻をしのぎきった上で、その黄金の鱗を1枚奪うことで、輝く鱗とともにドラゴンの証を与えられる、と言われている。
「このような辺境に神竜がなぜ訪れるのかは分からんが、もし本当に来るのであれば、証を得る最初で最後の機会のなるかも分からんな。最期になろうとみっともない真似は見せられんのう」
手にした戦斧に静かな視線を向けるカルガンの覚悟を決めた様子にリョーマはうなずいた。
「正直、今のままだったらみっともない真似を見せるだけで終わるだろうね。改良した樽爆弾を4人で全弾命中でもさせれば勝てるだろうけど、今は一度に爆弾を投げられるのが2人までだ。大体からして樽の数が足りなすぎるし」
ゴールドドラゴン相手に勝ち目があるとすれば、2人の連携攻撃が成功すると同時に樽爆弾を2発命中させた場合だけ、とリョーマが語る。
しかしそのためには残り4個しかないビール樽では到底足りない。そもそもゴールドドラゴン以前に、次に襲来する通常のドラゴンさえも樽爆弾を計算に入れてようやく勝てるかどうか、さらにその次のビホルダーに至ってはユニゾンが効かないため樽爆弾が何発あっても多すぎるということはない。
「いずれにしてもゴールドドラゴンの次に来る最終決戦のことを考えたら結論はただ1つだよ。僕らに必要なのは5人目の仲間だ。そして決めなくちゃいけないのは、ゴールドドラゴンとの戦いまでに5人目を確保するか、最終決戦前まででもいいのか、だ」
最終決戦前までで良しとするならば、ゴールドドラゴンとの戦いまでに連携攻撃や樽爆弾の威力をさらに強化する時間がとれる、ただ5人目の仲間はそれを上回る力となってくれるかもしれない、と悩むリョーマの言葉にリンデルが、珍しく困惑げな様子で割り込む。
「その最終決戦だが……貴様、本気で言っているのか?」
「本気って、ベヒモスのこと?」
「軽く言うが、本当に知っているのか、ベヒモスを」
ベヒモス。
世界は地水火風の四大精霊力で構成されていると言われている。そして地の精霊力を司る精霊神こそがベヒモス、またの名をバハムルトと呼ばれる存在である、と言われている。
いや、正しくはそう「書かれている」と言うべきだろう。神殿の聖典にも、魔法学院の教本にもそう書かれている。大地と生命の力を引き出して治癒の魔法をかける神官たちも、大地と創造の力を引き出して地割れを起こす魔法使いたちも、そこに書かれていることを疑いはしない。現実に現れる結果がそれを証明するからだ。
しかし彼らもベヒモスという存在自体を信じているわけではない。それは力であり、概念であり、教えとも呼ぶべきものだ。
「大体からしてどういうことだ、ベヒモスが襲ってくるというのは」
「知らないよ、そんな細かいこと」
リョーマは先にした説明を繰り返す。このあとドラゴンの襲来がある。それに続くのは連携攻撃の効かないビホルダー、その撃退に成功したあと、どのような形で相見えることになるかは分からないにしてもゴールドドラゴンが姿を見せる。
「そして最後はベヒモスだよ。ベヒモスが現れるのか、その化身だか何だかが現れるのかは知らない。僕に分かっていることは、それがギリギリの戦いになるだろうってこと、そして勝つためには5人目の力が不可欠だってことだよ」
仮に4人による連携攻撃が成功したと過程しても、なおベヒモスを打倒するには足りないことをリョーマは知っていた。4人全員が樽爆弾を命中させれば足りるが、そのための準備は逆説的に敗北を意味していた。
なぜならベヒモス戦の全てを樽爆弾に賭けるという決意は、それまでの連戦に「ビール樽を使わない」ことを意味する。そして現在の戦力ではベヒモス戦までの熾烈な戦いを樽爆弾抜きに勝ち抜くことは不可能だ。
「ドラゴン戦とビホルダー戦に樽爆弾は絶対必要で、この2体との戦闘で今ある4個のビール樽はほとんどなくなるはずなんだ。そのことを考えるとベヒモス戦までに5人目は絶対必要。だから問題は、いつ、ってことだけなんだよ」
5人目をいつまでに呼ぶか。ゴールドドラゴン戦までに呼ぶのか、ベヒモス戦に間に合えばいいのか。そして5人目を呼ぶ以外にとれるわずかな準備期間を何に当てるか。少ない選択肢の中に勝利と敗北が潜む。
リョーマの言葉は簡潔だった。
「連携重視で来たんだ。今更変えられないよ」
リンデルもカルガンも反対しなかった。そこにはおそらくジンとの戦闘で連携が効果的に働いたイメージがまだ色濃く残っていたからかもしれないし、リョーマに対する信頼があったのかもしれない。いずれにせよ結論は決まった。
そして1週間後。5人目の援軍より先にそれは訪れた。
「来たか」
「そのようじゃな」
見張り台から眼下に遠く広がる大森林の上を巨大な生物が滑るように飛んでくる。遠近感がおかしくなるほどの大きさを持つそれは、以前戦ったドラゴンパピーがまさに赤ん坊(パピー)であったことを痛いほど知らしめてくれた。
「ジェシカ、リョーマ。竜撃砲と樽爆弾は任せたぞ」
「了解だヨ」
この日のために樽爆弾の改良を続けてきたジェシカがニッと笑い、傍らに並べたビール樽を叩いた。その横で、準備の整った竜撃砲に片手を当てたリョーマが2人のドワーフに、気を付けて、と声をかけた。
「ああ、せいぜい気を付けるさ。竜の鱗を傷つけないようにな」
「余裕じゃなあ、おぬしは」
2人のドワーフが階下へと姿を消す。樽爆弾の準備を始めるジェシカに向かって、何かをためらっていたリョーマが意を決したように口を開きかけたとき。
大気が渦巻いた。立っているのがやっとなほどに。
巨大なドラゴンが見張り台からの視界を完全に遮り、大きくはばたきながらゆっくりと砦の前に降り立つ。その翼が大気を乱し、その巨体が大地を揺らす。
砦の2階にいてすら頭上に位置するドラゴンの両のあぎとから、聞く者の魂を震わせる咆哮が放たれる。まるでそれが合図であったかのようにドワーフの戦士2人が左右からドラゴンに襲いかかる!
戦闘は一瞬だった。カルガンとリンデルが左右からドラゴンの両足をそれぞれ切りつけ機動力を奪い、リョーマがわざと外した竜撃砲の音にドラゴンが顔を向けたところへジェシカの樽爆弾がその咥内に炸裂した。
胴体をほぼ無傷のままにドラゴンを倒すことに成功し、得られた竜の鱗は全て5人目の増援を確実に回してもらうために使われることとなった。
ドラゴン戦に樽を大量消費していた場合には、新たに樽を買い入れる必要もあった。しかしジェシカが奇跡的にも1個の樽爆弾の消費でドラゴンにとどめを刺したおかげで、残りのビール樽は3個。5人目を諦めてまで新たな樽を補充する必要はないという結論には誰も反対しなかった。
それからまた1週間と少しが経過し、5人目の仲間はまだその姿を見せていなかった。しかしビホルダーは何の前触れもなく砦の前にいた。ただ気がついたときにはそこに、まるで訪れるまでの経過を無視したかのように。
砦の半分ほどもある巨大な眼球がどす黒く厚い皮膜に覆われ、その皮膜はそのまま瞼(まぶた)の代わりにもなっていた。全身から死角なく全方向へと伸びた触手のそれぞれの先には大人の背丈と同じほどの大きさもある目玉が虹色に光っている。生物と呼ぶにはあまりに異形だが非生物と考えるにはあまりに生物的であった。
見張り台の壁の内側に張り付き姿を隠したジェシカとリョーマは、額から頬へと伝う汗もそのままに、身じろぎ一つせず合図を待った。数秒か、数分か、数時間か。時間が過ぎる。
玄関ホールで壺の割れる合図が聞こえた。
その瞬間から、正確に3秒数えたあと、リョーマは弾かれたように竜撃砲に取りつき、ジェシカは樽爆弾を抱え上げた。それとまったく同時に、砦の正面玄関からリンデルとカルガンが飛び出し、ビホルダーの8つの瞳が見開かれる!
リンデルとカルガンの斧が閃き、それぞれ左右から生える触手を2本ずつ切り落とす。リョーマの竜撃砲が外しようのない巨大な的、ビホルダーの巨大な眼球に突き刺さる。あとは上方に生える3本の触手を樽爆弾が一掃すれば勝利だった。
しかし焦るジェシカの手元はどうしても導火線に着火できない。ジェシカが焦れば焦るほど導火線は近づける松明の火から逃げるようだった。そうしているうちに切り落とした触手が再生を始めるのをリョーマは見た。
「ジェシカ! 急いで!」
「ええええええい! もうどうにでもなれだヨ!」
リョーマの叫びにジェシカは着火したのかどうかも確認せずに残った樽爆弾3個を全て次から次へと下へ放り投げた。落ちていく樽を目を丸くして見つめるリョーマには、降って来るものに気づき慌てて逃げ出すリンデルとカルガンがスローモーションのようにゆっくりと見えた。
ビホルダーの残された3本の触手が落ちてくる樽に気づく。自身に命中しそうなのがそのうちの1個だけだと気づいたビホルダーは、それに向かって2本の触手を向ける。辺り一帯に轟く雷撃とドラゴンの鱗すら炭に変える業火が放出された。
それらを呑み込んだドワーフ秘伝の樽爆弾は、たった1個であったにも関わらず過去最大級の爆発を見せたという。
「終わり良ければ全て良しさネ」
「良いわけがあるか。下には俺たちがいたんだぞ。消し炭にするつもりか」
「無事だったのにいつまでもうるさいヨ。みんな無事だったし、残り2個の樽も不発に終わってて使い回せるんだし、ビホルダーも倒せたし、何が不満なのサ」
「そうだな、貴様のその態度以外は特に不満はない」
「なら良いじゃないのサ!」
「良いわけあるか。一言でいい、謝れと言っているんだ」
ジェシカとリンデルの言い争いが生き残ったことに対する安堵のため息を兼ねていることを知っていたリョーマとカルガンは気にする風もなく生姜湯でつぶした芋をのどに流し込んでいたが、訪れたばかりの5人目の援軍である手斧使いのドワーフ、グリッドはどちらを止めるべきか、おろおろととまどうばかりであった。
「リョーマさんもカルガンさんも止めるの手伝ってくださいよおおお!」
「(もぐもぐ)手伝え、って言われてもすることないし」
「(もぐもぐ)リョーマの言う通りじゃ。おぬしも食わんともたんぞ」
その後、ビホルダー戦で想定されていた被害(砦の破損や戦いによる怪我など)はリンデルの主張する「精神的外傷」を除けば皆無に等しく、予定していたよりも多くの訓練時間を次のゴールドドラゴン戦までにとれることが分かった。
ドワーフたちは新たに訪れたグリッドを交えて3人以上の連携に精を出していた。それを2階の見張り台から見下ろしつつ、リョーマはしばらく前から考え続けている答えの出ない問いに悩んでいた。それは大きく分けて2つあり、未来のこと、そして過去のことだった。
この先の未来、彼は最後の妖魔であるベヒモスを倒すことで元の世界、現実の高校に戻ることが出来るのだろうと考えていた。もちろん何の根拠もなかったし、どうやって戻るのかも分からなかった。部室で目が覚めるのか、謎の光か何かに包まれるのか。
いずれにせよベヒモスを倒した瞬間にはもうここを離れているのかもしれない。そうだとすれば、別れを言う機会はベヒモスとの戦闘が始まる前しかない。
(別れか)
それは考えただけでも驚くほどにリョーマを動揺させた。カルガンの場を落ち着かせる低い声、博識なリンデルの口から語られるこの世界の不思議、そしてジェシカ。
この世界にいてはいけないのだろうか。そう考えたときに浮かぶ、もう1つの悩み。過去のこと。ドラゴン戦の前にいきなり「ドワーフの城塞」が鮮明になったとき、同時に気づかされたことがあった。
彼には過去の記憶がなかった。高校の部室にいたこと。その高校の生徒であること。それだけは確かだった。しかしその事実以外、一切の記憶がなかった。子供時代、入学前のこと、授業風景、クラスメート。何も思い出せなかった。まるで生まれたときから高校の生徒であり、部室にいたかのように、リョーマの記憶はそこから始まっていた。
いっそこの世界で生きてはいけないのか。しかし自分にそれを選ぶことはできるのか。ベヒモスを倒したとき、自分はどこに誰として帰るのか。
何1つはっきりとしない中、命を賭けた戦いとともに、かけがえのない仲間たちとの別れだけが近づいて来る。別れを告げる気持ちにもなれず、しかし、自分でも分からないことを相談することも出来ず、リョーマはただ答え出ない問いをぐるぐると胸の中に抱えていた。
そしてもちろんそんなリョーマの気持ちなど斟酌することなく、金色(こんじき)の竜は天空から舞い降りてきた。見張り台にいた一行はすでに決めていた覚悟を胸に武器を握りしめた。1人を除いて。
「あの、ちょっと待ってくださいよ」
「なんじゃい、こんなときに」
「いや、えーと、あれ、ゴールドドラゴンじゃないですか?」
「阿呆か貴様は。他の何に見えると言うんだ」
「おかしいでしょ!? なんで皆さんそんな落ち着いてんですか!?」
「変だな。ちゃんと前もって説明しておいたと思うんだけど」
「いや、だって本気だとは思わないでしょおおお!?」
「まさかリョーマを疑ってたの?」
「だから、そういう話じゃないでしょうがあああ!」
そのとき、良いか?、と一同の脳内に直接語りかける声があった。それは黄金のように気高く、黄金のように冷たく響いた。
(我が血族が世話になった。貴殿らを資格ありし者と認めよう)
そして沈黙が流れる。戦いの準備を待っているのだと無言のうちに察したドワーフたちは一度だけ目を合わせると、階下へ降りていった。1人残されたリョーマは魅入られたように金色の竜の輝く瞳を見つめた。
(リョーマ)
突然、名前を呼ばれたリョーマは驚きのあまり目を見開く。しかし続く言葉はさらに彼を驚愕させた。
(久しぶりだな。前回は不覚をとったがこのたびはそうはいかぬ……いや、貴殿としては初めて出会うことになるのか。奇妙な宿命よ)
「それは一体どういうこと……」
(貴殿の仲間の準備が整ったようだな)
とまどうリョーマの言葉を聞いてか聞かずか、ゴールドドラゴンが呟く。砦の前では4人のドワーフが武器を構えてゴールドドラゴンの前に立っていた。
「待って! 僕は……!」
(いざ、尋常に)
黄金の竜は咆哮と共に戦いの開始を告げた。
戦いは一瞬で終わりを告げた。
(見事だ)
地面に炸裂させた竜撃砲による煙幕、3人のドワーフによる連携攻撃、その隙間を縫うようにグリッドの手斧が黄金の鱗を削り取るのに要したのはわずか一呼吸ほどの時間。
(貴殿らの証は立てられた。印を授けよう。必要となる日は遠くない)
ゴールドドラゴンの全身が淡い燐光を帯びた次の瞬間、その光がドワーフたちの戦斧へと吸い込まれる。輝きが収まったとき、ドワーフたちの斧の光沢は神竜の鱗のそれと化していた。驚きと喜びに沸くドワーフたちから外された黄金の瞳の視線はリョーマへと向けられた。
(リョーマ。またしても敵わなんだな)
「いや、あの何を言ってるのかさっぱり分からないんだけど」
(お別れだな。またいつか、違う世界、違う秩序で出会うまで)
「おい。話を聞け」
巨大な翼が大きく羽ばたき、砦ごと吹き飛ばされそうな烈風が竜の身体を一気に上空へと押し上げた。ほれぼれと己の武器を眺めるドワーフたちと困惑を隠せないリョーマを残して伝説の幻獣は黄金の太陽に溶けていった。
最終決戦までに残された時間と資材は全てビール樽を補充するのに使われることになった。ドワーフたちは悩むことなく黄金の竜鱗を本軍へと送ることを決めた(グリッドだけ少しごねた)。証は鱗でも武器でもなく、自身の内にあったからだ。
しかし送られてきたビール樽は依頼した3個ではなくその倍の6個、さらに黄金の竜鱗も一緒に送り返されてきた。同封された書簡には「手違いで送られてきた模様。持ち主へ返却す」とだけ、王の直筆で書かれていた。
そしてベヒモスは初雪とともに訪れた。
「あんなところに山あったっけ」
「心当たりないのう」
「こんな近くにあったらさすがのアタシでも気づくさネ」
「だよね」
岩山の中腹に位置するドワーフの城塞。その見張り台からも視線の高さにその頂きがくるほどの真黒く小高い丘が、その色と対照的な無垢の初雪に覆われていた。黒豚の丸焼を岩塩で焼いたよう、と評したのはジェシカだった。
それは大森林の中ほどに突如として出現したように見えたが、よく見ると周囲の森林の木々が明らかに進行方向へとなぎ倒されており、それがゆっくりと森を押しのけるように前進してきたことは明白であった。
「こっちに向かってきてるね」
「そのようだな」
「ところでグリッドが荷物をまとめてたようなんじゃが」
「大丈夫でしょ。今ジェシカが向かったから」
逃げ出そうとするグリッドをジェシカが引きずりながら連れ戻している玄関ホールに、オークたちが白旗を掲げながら現れたのはそれからしばらくしてのことだった。
オークたちの言葉は聞き取りづらかったが大筋は理解できた。山のふもと、物資と兵員をまとめて大移動を開始しようとしている妖魔の軍団へと戻っていくオークたちをドワーフたちと人間は無言で見送った。
短くなった日の終わり、食堂の大テーブルには、新鮮な野菜を特製ソースで味付けしたサラダや焼いた紅芋などが並んでいた。それらはビール樽と一緒に届いた物資だった。ドワーフと暮らすうちにいかなるときも食事だけは欠かさない習慣を覚えたリョーマはドワーフたちとそれらを胃袋に収めながら会話に参加した。
「要は大森林の中央にある妖魔の陣地の跡地まで行けばいいわけだね」
「迷惑な話だネ。自分たちで扱いきれないものを呼びだすなんてサ」
「それだけ俺たちが脅威だったということだ。光栄な話だな」
「結果、妖魔たちの本陣は退いたわけじゃし、災い転じて福と成すじゃな」
「福と成してないですよおお! なんで皆さんそんな落ち着いてんすかああ!」
段階を踏んで強大な妖魔たちと相対してきたことで知らずのうちに感覚がマヒしていた4人と異なり、いきなり数々の人知を超えた存在と見(まみ)えることとなったグリッドは頭を抱えていた。逃げ出そうにも山越えに必要な道具は全てジェシカに奪われてしまっている。
「グリッド、別にあの小山を止める必要はないんだよ」
「それは分かってますよおお! でも同じくらい大変なんでしょおお!?」
「うるさいヨ。食事のときくらい静かにしたらどうさネ」
オークたちによると、どうやら妖魔たちは禁断の秘法に手を出したらしい。四大精霊神の力を直接この世に顕現させる儀式を、多くの妖魔を生け贄に捧げることで敢行したが「チョット、字ヲ間違エタ(オーク談)」らしく制御不能な地の力が本陣を呑み込み、それはそのまま移動を開始した。
兵力と物資の約4割を失うという壊滅的被害を受けた妖魔の軍団は一時的に本国へ退却を余儀なくされた。ドワーフの城塞に訪れてその顛末を説明していったのは好敵手としての忠告である、とオークたちの伝令は告げたが、リンデルに言わせれば、万が一にもアレを鎮められる可能性があるならば全て試しておきたいという思惑からだろう、とのことだった。
「いつ気まぐれに奴らの本国に向かうか、分かったもんじゃないからな」
「いずれにせよ教えてもらえたのはありがたいがの」
「でも神竜の試練を乗り越えたのはあそこからでも見えるんだね」
「そりゃまあ見間違えようはないさネ」
妖魔たちに希望を抱かせたのはドワーフたちにもたらされたとおぼしき金色の輝き、ゴールドドラゴンの力だった。四代精霊神そのものには及ばないにせよ、その化身であればほぼ同等かそれ以上の存在であるゴールドドラゴン。その恩恵を受けた武器であればベヒモスの力をこちらの世界につなぎとめてしまっている要(かなめ)を破壊できるかもしれないと考えたらしい。
食事を終えると手早く荷物をまとめた。迫りくる黒塊を避けなくてはならないため、往復で3日はかかる見通しの旅程だった。城塞のそびえる山中よりはましとはいえ寒さは厳しい。防寒具は必須だった。残されたビール樽8個も当然全て持って行く必要があった。食料と水は言わずもがなだ。
全ての用意を整えた出発の前夜。リョーマはジェシカの部屋の扉を叩いた。怪訝な顔をしつつも招き入れたジェシカとここに来てからのあれこれを話した。そんなこともあったさネ、と笑うジェシカを相手に思い出せる限りの思い出を、なぞり直すことで固い石に跡を付けるかのように、何度も。
最後にリョーマは部屋を去る前にジェシカに右手を差し出した。静かな笑みを浮かべているリョーマに何かを感じかけたジェシカだったが、何も言わずにその手を力いっぱい握った。痛みに顔をしかめるリョーマにジェシカが声を出して笑う。その痛みと微笑みはリョーマにとって何よりも(例えるなら口づけをするよりも)特別で忘れえないものだった。
5人は次の日の朝に旅立った。食料と水、防寒具と燃料、残ったビール樽全て。それらを荷台に積み上げ、かわるがわる引いて行く。一行は落ち着いていた。二度とこの城塞に帰って来れないかも、などと口に出しては一向に無視されていたのはグリッドだけだった。リョーマはその考えを口にしなかったからだ。
2日の行程の果てに一行は妖魔の本陣に辿り着いた。
そして最後の戦いの火ぶたが切っておとされた。
一行がベヒモスの力を封じることに成功してから1ヶ月が経ち、季節は真の冬になっていた。砦の外から名も知らぬ獣の遠吠えのように聞こえてくるのは凍えるような強風。この時期、残されたドワーフが城塞を守る相手は厳しい自然だった。
寒々しい玄関ホールの外に通じる扉がわずかに開いた。入ってくる外の冷たい空気と吹き付ける雪を最小限にすべくすぐ閉じられる。その隙に小さい身体をねじこんだ人影は自身に降り積もった雪を、溶けて身体を冷やす前に急いでふるい落とした。
「南の城壁よしと……」
ジェシカは小さく呟いた。普段通りの大声は静かな砦の中に無駄に大きく響く。
あれからリンデルはこの地で鍛えた腕を振るうべく新たな戦場を求め旅立った。カルガンは本国に戻り武術指南として若手を鍛えているらしい。グリッドは竜の証のおかげでかなりの高待遇を得られているとのことだがそれに胡坐(あぐら)をかいているのが不安でならない、というのはカルガンからの手紙にあった言葉だ。そしてリョーマ。
「やっぱり1人で管理するにはちょっとデカすぎる砦さネ」
疲れたようにジェシカはため息をついた。初めてリョーマと出会うその日までは、辺境の砦ということもあってたった1人で城塞を守っていた。今と同じように、たった1人で。
当時はまだ夏の気配も残る季節だった。外を見回ることも見張り台に立ちつくすのも大した労苦ではなかった。それで気が抜けていたのだろうか。いつのまにか妖魔の本陣が築かれ、援軍を呼ぶのが間に合わなかった。放棄する屈辱を負うか、戦って死ぬかの2択を迫られていたジェシカに、新たな選択肢をもたらしてくれたのがリョーマだった。
1階の食堂で暖炉に薪を足しながら初めて出会ったリョーマは人間にしてもあまりに細く、今にも折れてしまいそうな枝を思わせた。それからの数ヶ月に及ぶ砦の生活の中で随分と身体も鍛えられたはずだったが、それでも見た目の頼りなさはあまり変わらなかった。
頼りになったのは腕っ節じゃなかったよネ、とジェシカは鍋の準備をしながら懐かしげに目を細めた。それでも、と眉をひそめる。いくらなんでもあれじゃ細すぎさネ。
そのとき階段から、下りてくる足音と疲れ切った声が聞こえてきた。
「腕立て50回と腹筋50回、廊下の30往復、終わったよ……」
「思ったより早かったネ。じゃあもう1セット追加」
「え」
愕然とするリョーマにジェシカが顔をしかめる。
「え、じゃないヨ。まだアタシに腕相撲で3回に1回しか勝てないくせに」
「そりゃそうだけどさあ」
せめて水だけは飲ませてよ、と食堂の上に並べられた2人分の食器から杯を取り上げる。鍛錬に専念するために城塞の管理をジェシカ1人に任せているという負い目があり、リョーマも本気で休もうとは思ってはいなかった。加えて、少しずつ強くなっていく実感は確かに充実したものではあった。それでもジェシカの鍛錬の方針に疑問がないわけではなかったが。
「鍛えるのはいいけど、腕相撲の練習の時間はさすがに長過ぎない? 趣味?」
「だってアタシの父さん、腕相撲で勝てない相手は絶対に認めてくれないし」
「認めるって何を」
疲れ果てた様子で椅子に腰を下ろしたリョーマが発した問いに、なぜか耳まで赤くしたジェシカは怒ったように「ほら、さぼるんじゃない!」と2階へと追いやった。
怒られた訳も分からずにリョーマは水を一気に飲み干すと再び2階へと駆け上がった。それは出来ることをするために、出来ないことを出来るようになるために、そして、少なくとも好きな相手に抱きしめられただけで音を上げたりしないようになるために。
<エピローグ>
ここは世界の北、夏は短く冬は長く厳しい。海には無数に浮かぶ島々。その中でも特に大きな島々にはそれぞれ黄金の竜が住まうという。
それらの中の1つ、多くの種族が縄張りを争っている特に巨大な島の西部では、ドワーフと妖魔が南北に伸びる山脈を挟んで争いを続けている。
島全体と全ての種族を巻き込む100年の戦乱が始まるのはそれから数年ののちのことだったが、その中でリョーマとジェシカが担った役割については、また別の物語となる。
(終わり)
<そして、もう1つのエピローグ>
午後の授業を終えて部室に入ってきた高田は、一番乗りと思いきやOBの桂木がソファに寝そべっているのを発見して顔をしかめた。
「先輩、ホントに大学行ってるんすか」
「んー。相変わらずご挨拶だなあ。行ってるよ、ちゃんと」
後輩の言葉に身を起こし、大きく伸びをする桂木を無視して、高田はテーブルの上の紙束を調べた。週末に遊ぶ予定のゲームに必要な用紙を回収しておくためだ。しかし目的のブツを見つけたと思いきや、彼は困惑した様子で用紙をまじまじと見つめた。
「あれ? まさか先輩、俺のキャラクターシートの情報、消しました?」
「消さねーよ! そもそもお前、いつもボールペンで書いてるじゃねーか」
「いや、今週末のクトゥルフで使う予定だった高校生のデータが消えてるんですよ。まあ、名前と能力値以外は、この部に所属してるって設定くらいしか書いてなかったんすけど」
「知らねーよ、そんなこと」
「あ、そうそう。ちなみに、自慢じゃないっすけど、同じ名前をつけたキャラで先日ゴールドドラゴンを倒しましたよ!」
「ホンットに自慢でもなんでもねえよ、それ! 俺の脳内にいらん情報をインプットするな、ただでさえ容量少ねーんだから! つーか、常識的に考えて、別のキャラクターシートに書いたんだろ」
「いや、絶対これですって! ほら、ここにコーヒーのしみが!」
「しみ付けた時点で使うなよ!」
「味があっていいじゃないっすか……コーヒーだけに」
得意げに笑みを浮かべる後輩相手に、うわ殴りてえ、と思いながら桂木が立ち上がる。どうせ別のキャラクターシートと見間違えているのだろうと乱雑に散らかったテーブルの上を見回した。そして別の何かに気づいた。
「あれ? なんだよ、ドワーフの城塞、こんなところに置いてあるのか。ちゃんと遊んでくれよ、面白いんだって」
それは彼が先日のゲームマーケットで購入してきたポストカードゲームだった。1枚50円だったので、10枚を500円でまとめ買いし、そのうちの数枚を部室に寄付していったのだ。高田は少しばつの悪そうな顔をしつつ、手にした記入のないキャラクターシートをひらひらと示した。
「あ、すんません。昨日、きっと誰かがテーブルの上を片づけたときにこれと重ねたんすよ。こないだまで重なって隠れてたの分けておいたはずなんで」
「そっか。ん? あれ? おかしいな」
「どうしたんですか?」
「乱丁かな。なんかイラストが他のと違ってる気がする」
ポストカードの体裁をとっているそのゲームは、宛先を書く側の下半分を「ドワーフの城塞」のルールテキストが占めており、そのテキストボックスの上には砦と7匹のゴブリンのイラストが描かれている。彼が指し示したのはその砦だった。
「ほら、砦のインクがかすれて、城壁に誰か2人が立ってるみたいになってる」
「それ1枚だけっすね、そうなってるの」
「こっちはお下げがあるから女の子っぽいな」
「じゃあもう1人のちょっと背が高いほうが男の子っすかね」
そこで他の部員がぞろそろと部室に入ってきたので、2人は会話を切り上げて、テーブルの上をあらためて整理して脇に寄せた。せっかく人が集まったのだから何かボードゲームでも遊ぼうと考えたからだ。
その後、そのとき見かけた乱丁とおぼしき「ドワーフの城塞」のポストカードはいくら探しても見つけることは出来なかった。しかし高田も桂木もすぐにそのことは忘れてしまった。
遊ばないといけないゲームも、救わないといけない世界も、倒さないといけない敵たちも、食べさせないといけない家族たちも、まだたくさん残っていたからだ。
(本当に終わり)
以下が公式ページ
I Was Game:『ドワーフの城塞』
http://c3ba95dc5fb36b51a14310b783.doorkeeper.jp/events/16376
以下が第1話目から第3話
第1話:リョーマとジェシカ
http://regiant.diarynote.jp/201412041447355994/
第2話:竜鱗甲と勝利の確率
http://regiant.diarynote.jp/201412050218092594/
第3話:分岐する未来
http://regiant.diarynote.jp/201412070750474204/
第1話はフレイバー重視、対して第2話と第3話はシステム面の魅力を重視したもの。そしてこの最終話はどちらも詰め込めるだけ詰め込んでみた。
《ドワーフの城塞攻防記》 最終話:ドワーフと人間の城塞
リョーマはベッドに腰かけると、大きく息をついた。それは目が覚めた瞬間だった。不思議なことに、はっきりと「ドワーフの城塞」のポストカードの内容が思い出せた。
それは、まるで伏せられていた紙を表返したかのようだった。次に襲ってくる敵の名前と強さだけでなくその特殊な能力も含めて全てが見えた。
何かが起きたらしい。しかし今のリョーマにとって重要なのは、その原因ではなく、それがもたらした事実だった。次に襲来する妖魔、その強さと今の戦力。
「このままじゃ勝てない」
ぼそりと呟く。それは次のドラゴンとの対決のことでもあり、その先に控えるさらなる妖魔たちとの戦いとのことでもあった。
リョーマが説明を終えたとき、リンデルとカルガンはしばらく言葉が出なかった。自信ありげというよりも悲壮なまでに覚悟を決めているといった雰囲気のリョーマの顔は嘘をついているようには見えなかったが、しかし。
「ドラゴンは、まだ分かるんじゃが……」
困惑した顔のカルガンの言葉のあとを継いでリンデルが、ビホルダーだと?、と呆然とした口調で呟く。ビホルダーってのは聞き覚えのない名前だネ、とジェシカが正直に言うとリンデルは、もちろん俺も実際に見たことはないが、と前置きして語り出した。
「聞いたことがなくて当然だ。ビホルダーはただの妖魔の名前じゃない。その名前が指すのは世界にたった1体しか存在しない、ある個体の名だ。真のビホルダーは常に単一で、まがいものの存在は決して許されない。決してだ」
異世界の神とも、無の精霊の化身とも噂されるその存在は、口伝によると宙に浮く巨大な眼球の姿をしており、全身から生えた7本の触手の先にはそれぞれ目玉がにらみをきかせているとのことだ。
通常の生物の瞳が前についているのは未来へ向かうためと言われている。過去を背後とし、前に向かい生きていく使命があるからだと。
しかしビホルダーには未来も過去もない。その存在は常にただ1体、今現在にしかない。そのため、いかなる連携を見せようとビホルダーの不意をつくことはできない。予想できない未来がないからだ。殺したものを顧みることもない。過去がないからだ。
加えて、7本の触手の先にある目玉から放たれる光線はそれぞれ違った効果を持ちつつも、そのどれも、浴びた者にありふれた死よりも恐ろしい結末をもたらすと言われている。例えばその1つである石化光線を浴びたものは意識あるままに指先一つ動かせぬ石像と化すらしい。
長大な叙事詩に関わるような歴戦の勇士であっても、その頭を地面にこすりつけ許しを乞う。それがビホルダーという存在だと。
「え? どうするのサ、それ」
あまりのスケールの大きさにどう反応すればよいか分からないジェシカが呟く。
「滅ぼすことはできないが撃退することに成功したという話はいくつか伝え聞いてはいる。要はビホルダーの認識する現在と俺たちを一時的に断ち切るんだ。全ての触手の目玉をつぶした上で最後に眼球をつぶすことでビホルダーは俺たちを認識できなくなり、俺たちもビホルダーを認識できなくなる」
そうして姿を消したビホルダーは少なくとも数十年は再び目撃されることはないらしい、とリンデルは締めくくった。分かっていなかったが、とりあえず分かったふりをしてうなずくジェシカに対し、リョーマは理解しなくてはいけない部分だけを簡潔に述べた。
「要するにユニゾンが効かないんだよ」
「ああ、そういう話」
ようやく笑顔を浮かべたジェシカの横でカルガンはしかめ面で顎鬚をしごいていた。カルガンはビホルダーよりも、ビホルダーの次に襲来するとリョーマが告げた存在のことを考えていた。それは妖魔のくくりに入れられることが多いが、魔と呼ぶにはあまりにも美しく畏怖すべき存在であった。
「神竜か」
ゴールドドラゴン、またの名を神竜。炎と地に生きるドワーフにとって「ドラゴン」とは常に特別な存在であり、そのドラゴン族の頂点に立つゴールドドラゴンは神にも等しい存在だった。
大海に浮かぶ主要な島々(この砦も、それらのうちで比較的大きな島の1つの辺境に位置している)には、それぞれの島ごと、1つの時代に唯1体のゴールドドラゴンが生まれると言われている。そのため目撃された回数だけであればビホルダーの比ではない。しかしゴールドドラゴンと戦った記録はビホルダーのそれよりさらに少ない。神に戦いを挑むものはいない。相対するとき、そこに生じるのは戦いではなかった。
それは証明であった。
「まさかこんな辺境でドラゴンの証を立てることになろうとはのう」
カルガンの口元が緩む。
ドワーフの戦士が真の勇者として認められるにはいくつかの選択肢があった。その1つがドラゴンの証と呼ばれる印である。ゴールドドラゴンが挑まれた者、つまり試すにふさわしいと認められた者は、猛攻をしのぎきった上で、その黄金の鱗を1枚奪うことで、輝く鱗とともにドラゴンの証を与えられる、と言われている。
「このような辺境に神竜がなぜ訪れるのかは分からんが、もし本当に来るのであれば、証を得る最初で最後の機会のなるかも分からんな。最期になろうとみっともない真似は見せられんのう」
手にした戦斧に静かな視線を向けるカルガンの覚悟を決めた様子にリョーマはうなずいた。
「正直、今のままだったらみっともない真似を見せるだけで終わるだろうね。改良した樽爆弾を4人で全弾命中でもさせれば勝てるだろうけど、今は一度に爆弾を投げられるのが2人までだ。大体からして樽の数が足りなすぎるし」
ゴールドドラゴン相手に勝ち目があるとすれば、2人の連携攻撃が成功すると同時に樽爆弾を2発命中させた場合だけ、とリョーマが語る。
しかしそのためには残り4個しかないビール樽では到底足りない。そもそもゴールドドラゴン以前に、次に襲来する通常のドラゴンさえも樽爆弾を計算に入れてようやく勝てるかどうか、さらにその次のビホルダーに至ってはユニゾンが効かないため樽爆弾が何発あっても多すぎるということはない。
「いずれにしてもゴールドドラゴンの次に来る最終決戦のことを考えたら結論はただ1つだよ。僕らに必要なのは5人目の仲間だ。そして決めなくちゃいけないのは、ゴールドドラゴンとの戦いまでに5人目を確保するか、最終決戦前まででもいいのか、だ」
最終決戦前までで良しとするならば、ゴールドドラゴンとの戦いまでに連携攻撃や樽爆弾の威力をさらに強化する時間がとれる、ただ5人目の仲間はそれを上回る力となってくれるかもしれない、と悩むリョーマの言葉にリンデルが、珍しく困惑げな様子で割り込む。
「その最終決戦だが……貴様、本気で言っているのか?」
「本気って、ベヒモスのこと?」
「軽く言うが、本当に知っているのか、ベヒモスを」
ベヒモス。
世界は地水火風の四大精霊力で構成されていると言われている。そして地の精霊力を司る精霊神こそがベヒモス、またの名をバハムルトと呼ばれる存在である、と言われている。
いや、正しくはそう「書かれている」と言うべきだろう。神殿の聖典にも、魔法学院の教本にもそう書かれている。大地と生命の力を引き出して治癒の魔法をかける神官たちも、大地と創造の力を引き出して地割れを起こす魔法使いたちも、そこに書かれていることを疑いはしない。現実に現れる結果がそれを証明するからだ。
しかし彼らもベヒモスという存在自体を信じているわけではない。それは力であり、概念であり、教えとも呼ぶべきものだ。
「大体からしてどういうことだ、ベヒモスが襲ってくるというのは」
「知らないよ、そんな細かいこと」
リョーマは先にした説明を繰り返す。このあとドラゴンの襲来がある。それに続くのは連携攻撃の効かないビホルダー、その撃退に成功したあと、どのような形で相見えることになるかは分からないにしてもゴールドドラゴンが姿を見せる。
「そして最後はベヒモスだよ。ベヒモスが現れるのか、その化身だか何だかが現れるのかは知らない。僕に分かっていることは、それがギリギリの戦いになるだろうってこと、そして勝つためには5人目の力が不可欠だってことだよ」
仮に4人による連携攻撃が成功したと過程しても、なおベヒモスを打倒するには足りないことをリョーマは知っていた。4人全員が樽爆弾を命中させれば足りるが、そのための準備は逆説的に敗北を意味していた。
なぜならベヒモス戦の全てを樽爆弾に賭けるという決意は、それまでの連戦に「ビール樽を使わない」ことを意味する。そして現在の戦力ではベヒモス戦までの熾烈な戦いを樽爆弾抜きに勝ち抜くことは不可能だ。
「ドラゴン戦とビホルダー戦に樽爆弾は絶対必要で、この2体との戦闘で今ある4個のビール樽はほとんどなくなるはずなんだ。そのことを考えるとベヒモス戦までに5人目は絶対必要。だから問題は、いつ、ってことだけなんだよ」
5人目をいつまでに呼ぶか。ゴールドドラゴン戦までに呼ぶのか、ベヒモス戦に間に合えばいいのか。そして5人目を呼ぶ以外にとれるわずかな準備期間を何に当てるか。少ない選択肢の中に勝利と敗北が潜む。
リョーマとドワーフたちが相談している間に状況をデータ面からまとめてみる。物語の先に興味がある人は、この枠内の文章を丸ごと飛ばしてもらってかまわない。
さて。
仮に5人目を呼ばないとすると、その分で余る資材と労力で替わりに得られるのは「重複MAX + ユニゾンMAX」もしくは「樽爆弾MAX + ビール樽6個」など。
しかしリョーマも言ったように、これらスキルのレベルを上げたところで最終ボスのベヒモスを「4人のみ」で倒すイメージがどうしてもわいてこない。
ユニゾンMAXの場合は「4個のサイコロのうち3個以上がゾロ目となること」が前提だし、樽爆弾をどんなに強化しようと(同時に重複配置を強化しない以上)一度に爆弾を撃てるのは2人までであり、ベヒモスを倒すには足りない。
悩んだ挙句に達した結論は「振り直しをMAXまで上げるのに資材をつぎ込んでしまった以上、たとえそれが博打と分かっていてもユニゾン(+重複配置)に賭けるしかない」ということ。
そこで腹をくくって「5人目 + 3人によるユニゾンが成功する」という前提で行くとして、今後の砦の発展はどうすべきか。
まずベヒモス戦までにどれだけの資材と労力が手に入るかを計算する(なお、1体の敵を倒すと必ず2点分の資材が手に入り、かつ最低限の労力で敵を倒すと1点のボーナスが手に入る)。
ジンを倒して得た 3点 のうち、2点 はすでに樽爆弾の改良に充てることが確定しているので、余り【1点】、加えて ドラゴン【2点】 + ビホルダー【2点】 + ゴールドドラゴン【2点】 で計7点。
つまりゴールドドラゴンまでに5人目を呼ぶということは(ボーナス分が得られなかった場合)今現在のスキルのままでゴールドドラゴンに挑むということになり、勝つ条件は「ユニゾン 2人 + 樽爆弾 1人 + 残り2人で10点ダメージ」だ。
2人で10点はきつい(確率は6分の1しかない)が、振り直しは3回できるし、運が良ければ(=ドラゴンとビホルダー相手にボーナスを稼ぐことに成功すれば)重複配置をもう1レベル上げておくこともできる。
何をどうしようが博打になるのは確実なんだし、勝てる可能性があるのだけまし、ということでジンで稼いだ経験値は「重複配置1」と「樽爆弾2」と割り振ることにした。
ドラゴン戦はほぼ確実にボーナス点がもらえるので全てを「5人目」につぎ込む。ビホルダー戦でボーナスが得られれば「5人目+重複配置」、ボーナスが得られなければ「5人目」でゴールドドラゴン戦だ。
リョーマの言葉は簡潔だった。
「連携重視で来たんだ。今更変えられないよ」
リンデルもカルガンも反対しなかった。そこにはおそらくジンとの戦闘で連携が効果的に働いたイメージがまだ色濃く残っていたからかもしれないし、リョーマに対する信頼があったのかもしれない。いずれにせよ結論は決まった。
そして1週間後。5人目の援軍より先にそれは訪れた。
「来たか」
「そのようじゃな」
見張り台から眼下に遠く広がる大森林の上を巨大な生物が滑るように飛んでくる。遠近感がおかしくなるほどの大きさを持つそれは、以前戦ったドラゴンパピーがまさに赤ん坊(パピー)であったことを痛いほど知らしめてくれた。
「ジェシカ、リョーマ。竜撃砲と樽爆弾は任せたぞ」
「了解だヨ」
この日のために樽爆弾の改良を続けてきたジェシカがニッと笑い、傍らに並べたビール樽を叩いた。その横で、準備の整った竜撃砲に片手を当てたリョーマが2人のドワーフに、気を付けて、と声をかけた。
「ああ、せいぜい気を付けるさ。竜の鱗を傷つけないようにな」
「余裕じゃなあ、おぬしは」
2人のドワーフが階下へと姿を消す。樽爆弾の準備を始めるジェシカに向かって、何かをためらっていたリョーマが意を決したように口を開きかけたとき。
大気が渦巻いた。立っているのがやっとなほどに。
巨大なドラゴンが見張り台からの視界を完全に遮り、大きくはばたきながらゆっくりと砦の前に降り立つ。その翼が大気を乱し、その巨体が大地を揺らす。
砦の2階にいてすら頭上に位置するドラゴンの両のあぎとから、聞く者の魂を震わせる咆哮が放たれる。まるでそれが合図であったかのようにドワーフの戦士2人が左右からドラゴンに襲いかかる!
ドラゴンの強さは29で、これは2人分のユニゾンアタックと樽爆弾1発でちょうど。今現在の残り樽数が4個なので「ゾロ目 + 4以下の目」があれば勝利……(コロコロ)……っと、サイコロ4個の出目は【1】【2】【2】【6】。よし完璧。
【2】と【2】をユニゾンに設置、【1】を樽爆弾に設置(【6】は未使用)。これで樽消費を最小限に抑えつつ、ちょうど29点!
戦闘は一瞬だった。カルガンとリンデルが左右からドラゴンの両足をそれぞれ切りつけ機動力を奪い、リョーマがわざと外した竜撃砲の音にドラゴンが顔を向けたところへジェシカの樽爆弾がその咥内に炸裂した。
胴体をほぼ無傷のままにドラゴンを倒すことに成功し、得られた竜の鱗は全て5人目の増援を確実に回してもらうために使われることとなった。
ドラゴン戦に樽を大量消費していた場合には、新たに樽を買い入れる必要もあった。しかしジェシカが奇跡的にも1個の樽爆弾の消費でドラゴンにとどめを刺したおかげで、残りのビール樽は3個。5人目を諦めてまで新たな樽を補充する必要はないという結論には誰も反対しなかった。
それからまた1週間と少しが経過し、5人目の仲間はまだその姿を見せていなかった。しかしビホルダーは何の前触れもなく砦の前にいた。ただ気がついたときにはそこに、まるで訪れるまでの経過を無視したかのように。
砦の半分ほどもある巨大な眼球がどす黒く厚い皮膜に覆われ、その皮膜はそのまま瞼(まぶた)の代わりにもなっていた。全身から死角なく全方向へと伸びた触手のそれぞれの先には大人の背丈と同じほどの大きさもある目玉が虹色に光っている。生物と呼ぶにはあまりに異形だが非生物と考えるにはあまりに生物的であった。
見張り台の壁の内側に張り付き姿を隠したジェシカとリョーマは、額から頬へと伝う汗もそのままに、身じろぎ一つせず合図を待った。数秒か、数分か、数時間か。時間が過ぎる。
玄関ホールで壺の割れる合図が聞こえた。
その瞬間から、正確に3秒数えたあと、リョーマは弾かれたように竜撃砲に取りつき、ジェシカは樽爆弾を抱え上げた。それとまったく同時に、砦の正面玄関からリンデルとカルガンが飛び出し、ビホルダーの8つの瞳が見開かれる!
ビホルダーの強さは26でドラゴンよりも弱い。しかしユニゾンが効かないため、樽爆弾に頼らざるを得ない。樽爆弾2発と白兵戦か、樽爆弾1発と竜撃砲+白兵戦か。
低い出目が多ければ(具体的にはサイコロ2個で3以下)樽爆弾2発を、大きな出目が多ければ(具体的にはサイコロ3個で15以上)樽爆弾1発を消費することになる……(コロコロ)……っと、サイコロ4個の出目は【4】【4】【5】【6】。すごい出目だな。まさかサイコロ3個で15以上が出るとは思わなかった。助かった。
まず【4】【5】【6】をキープして、2つ目の【4】を振り直せばよし。この1個をあと3回振り直して、1回でも3以下になれば勝ちだ。それも出来る限り低い出目が望ましいところ。
まず1回目の振り直しが……(コロコロ)……【5】か。あと2回振り直せる……(コロコロ)……【5】!?
あれ? こ、これ、次に振り直して4以上だったら普通に負ける? いや、え、でも他に選択肢ないよな。キープしといたサイコロを振り直してもしょうがないし、腹をくくるか……(コロコロ)……【1】! よしっ!
【1】を樽爆弾に設置、【4】を竜撃砲に設置、【5】【6】を白兵戦に設置して、これでダメージの合計はちょうど26点!
リンデルとカルガンの斧が閃き、それぞれ左右から生える触手を2本ずつ切り落とす。リョーマの竜撃砲が外しようのない巨大な的、ビホルダーの巨大な眼球に突き刺さる。あとは上方に生える3本の触手を樽爆弾が一掃すれば勝利だった。
しかし焦るジェシカの手元はどうしても導火線に着火できない。ジェシカが焦れば焦るほど導火線は近づける松明の火から逃げるようだった。そうしているうちに切り落とした触手が再生を始めるのをリョーマは見た。
「ジェシカ! 急いで!」
「ええええええい! もうどうにでもなれだヨ!」
リョーマの叫びにジェシカは着火したのかどうかも確認せずに残った樽爆弾3個を全て次から次へと下へ放り投げた。落ちていく樽を目を丸くして見つめるリョーマには、降って来るものに気づき慌てて逃げ出すリンデルとカルガンがスローモーションのようにゆっくりと見えた。
ビホルダーの残された3本の触手が落ちてくる樽に気づく。自身に命中しそうなのがそのうちの1個だけだと気づいたビホルダーは、それに向かって2本の触手を向ける。辺り一帯に轟く雷撃とドラゴンの鱗すら炭に変える業火が放出された。
それらを呑み込んだドワーフ秘伝の樽爆弾は、たった1個であったにも関わらず過去最大級の爆発を見せたという。
「終わり良ければ全て良しさネ」
「良いわけがあるか。下には俺たちがいたんだぞ。消し炭にするつもりか」
「無事だったのにいつまでもうるさいヨ。みんな無事だったし、残り2個の樽も不発に終わってて使い回せるんだし、ビホルダーも倒せたし、何が不満なのサ」
「そうだな、貴様のその態度以外は特に不満はない」
「なら良いじゃないのサ!」
「良いわけあるか。一言でいい、謝れと言っているんだ」
ジェシカとリンデルの言い争いが生き残ったことに対する安堵のため息を兼ねていることを知っていたリョーマとカルガンは気にする風もなく生姜湯でつぶした芋をのどに流し込んでいたが、訪れたばかりの5人目の援軍である手斧使いのドワーフ、グリッドはどちらを止めるべきか、おろおろととまどうばかりであった。
「リョーマさんもカルガンさんも止めるの手伝ってくださいよおおお!」
「(もぐもぐ)手伝え、って言われてもすることないし」
「(もぐもぐ)リョーマの言う通りじゃ。おぬしも食わんともたんぞ」
その後、ビホルダー戦で想定されていた被害(砦の破損や戦いによる怪我など)はリンデルの主張する「精神的外傷」を除けば皆無に等しく、予定していたよりも多くの訓練時間を次のゴールドドラゴン戦までにとれることが分かった。
ドワーフたちは新たに訪れたグリッドを交えて3人以上の連携に精を出していた。それを2階の見張り台から見下ろしつつ、リョーマはしばらく前から考え続けている答えの出ない問いに悩んでいた。それは大きく分けて2つあり、未来のこと、そして過去のことだった。
この先の未来、彼は最後の妖魔であるベヒモスを倒すことで元の世界、現実の高校に戻ることが出来るのだろうと考えていた。もちろん何の根拠もなかったし、どうやって戻るのかも分からなかった。部室で目が覚めるのか、謎の光か何かに包まれるのか。
いずれにせよベヒモスを倒した瞬間にはもうここを離れているのかもしれない。そうだとすれば、別れを言う機会はベヒモスとの戦闘が始まる前しかない。
(別れか)
それは考えただけでも驚くほどにリョーマを動揺させた。カルガンの場を落ち着かせる低い声、博識なリンデルの口から語られるこの世界の不思議、そしてジェシカ。
この世界にいてはいけないのだろうか。そう考えたときに浮かぶ、もう1つの悩み。過去のこと。ドラゴン戦の前にいきなり「ドワーフの城塞」が鮮明になったとき、同時に気づかされたことがあった。
彼には過去の記憶がなかった。高校の部室にいたこと。その高校の生徒であること。それだけは確かだった。しかしその事実以外、一切の記憶がなかった。子供時代、入学前のこと、授業風景、クラスメート。何も思い出せなかった。まるで生まれたときから高校の生徒であり、部室にいたかのように、リョーマの記憶はそこから始まっていた。
いっそこの世界で生きてはいけないのか。しかし自分にそれを選ぶことはできるのか。ベヒモスを倒したとき、自分はどこに誰として帰るのか。
何1つはっきりとしない中、命を賭けた戦いとともに、かけがえのない仲間たちとの別れだけが近づいて来る。別れを告げる気持ちにもなれず、しかし、自分でも分からないことを相談することも出来ず、リョーマはただ答え出ない問いをぐるぐると胸の中に抱えていた。
そしてもちろんそんなリョーマの気持ちなど斟酌することなく、金色(こんじき)の竜は天空から舞い降りてきた。見張り台にいた一行はすでに決めていた覚悟を胸に武器を握りしめた。1人を除いて。
「あの、ちょっと待ってくださいよ」
「なんじゃい、こんなときに」
「いや、えーと、あれ、ゴールドドラゴンじゃないですか?」
「阿呆か貴様は。他の何に見えると言うんだ」
「おかしいでしょ!? なんで皆さんそんな落ち着いてんですか!?」
「変だな。ちゃんと前もって説明しておいたと思うんだけど」
「いや、だって本気だとは思わないでしょおおお!?」
「まさかリョーマを疑ってたの?」
「だから、そういう話じゃないでしょうがあああ!」
そのとき、良いか?、と一同の脳内に直接語りかける声があった。それは黄金のように気高く、黄金のように冷たく響いた。
(我が血族が世話になった。貴殿らを資格ありし者と認めよう)
そして沈黙が流れる。戦いの準備を待っているのだと無言のうちに察したドワーフたちは一度だけ目を合わせると、階下へ降りていった。1人残されたリョーマは魅入られたように金色の竜の輝く瞳を見つめた。
(リョーマ)
突然、名前を呼ばれたリョーマは驚きのあまり目を見開く。しかし続く言葉はさらに彼を驚愕させた。
(久しぶりだな。前回は不覚をとったがこのたびはそうはいかぬ……いや、貴殿としては初めて出会うことになるのか。奇妙な宿命よ)
「それは一体どういうこと……」
(貴殿の仲間の準備が整ったようだな)
とまどうリョーマの言葉を聞いてか聞かずか、ゴールドドラゴンが呟く。砦の前では4人のドワーフが武器を構えてゴールドドラゴンの前に立っていた。
「待って! 僕は……!」
(いざ、尋常に)
黄金の竜は咆哮と共に戦いの開始を告げた。
ゴールドドラゴンの強さはそれまでとは段違いで、いきなり直前のビホルダーの1.5倍もの強さとなる。勝つには3人がかりのユニゾンによる27点が出ることが前提で、残りの2人で「樽爆弾+竜撃砲」を使うか、6ゾロによる「白兵戦×2」の奇跡を起こすか。
まず3つのゾロ目が出るまで振り直すことが前提な上に、余ったサイコロ2個が中途半端に高い目の場合(残りのビール樽が3個しかないので)樽爆弾が使えない。ビホルダー戦での苦戦(振り直し)を思い出すに、かなり怖い。
何にせよ、サイコロ5個振らないことには始まらない……(コロコロ)……ふむ、【1】【1】【1】【6】【6】か……えっ? なんだこれ、えーと? ……ああ、樽使わずに勝ってるな。マジか。
というわけで【1】【1】【1】をユニゾンに設置、【6】を白兵戦に設置、【6】を竜撃砲に設置して、ぴったりゴールドドラゴンを撃破。
戦いは一瞬で終わりを告げた。
(見事だ)
地面に炸裂させた竜撃砲による煙幕、3人のドワーフによる連携攻撃、その隙間を縫うようにグリッドの手斧が黄金の鱗を削り取るのに要したのはわずか一呼吸ほどの時間。
(貴殿らの証は立てられた。印を授けよう。必要となる日は遠くない)
ゴールドドラゴンの全身が淡い燐光を帯びた次の瞬間、その光がドワーフたちの戦斧へと吸い込まれる。輝きが収まったとき、ドワーフたちの斧の光沢は神竜の鱗のそれと化していた。驚きと喜びに沸くドワーフたちから外された黄金の瞳の視線はリョーマへと向けられた。
(リョーマ。またしても敵わなんだな)
「いや、あの何を言ってるのかさっぱり分からないんだけど」
(お別れだな。またいつか、違う世界、違う秩序で出会うまで)
「おい。話を聞け」
巨大な翼が大きく羽ばたき、砦ごと吹き飛ばされそうな烈風が竜の身体を一気に上空へと押し上げた。ほれぼれと己の武器を眺めるドワーフたちと困惑を隠せないリョーマを残して伝説の幻獣は黄金の太陽に溶けていった。
最終決戦までに残された時間と資材は全てビール樽を補充するのに使われることになった。ドワーフたちは悩むことなく黄金の竜鱗を本軍へと送ることを決めた(グリッドだけ少しごねた)。証は鱗でも武器でもなく、自身の内にあったからだ。
しかし送られてきたビール樽は依頼した3個ではなくその倍の6個、さらに黄金の竜鱗も一緒に送り返されてきた。同封された書簡には「手違いで送られてきた模様。持ち主へ返却す」とだけ、王の直筆で書かれていた。
そしてベヒモスは初雪とともに訪れた。
「あんなところに山あったっけ」
「心当たりないのう」
「こんな近くにあったらさすがのアタシでも気づくさネ」
「だよね」
岩山の中腹に位置するドワーフの城塞。その見張り台からも視線の高さにその頂きがくるほどの真黒く小高い丘が、その色と対照的な無垢の初雪に覆われていた。黒豚の丸焼を岩塩で焼いたよう、と評したのはジェシカだった。
それは大森林の中ほどに突如として出現したように見えたが、よく見ると周囲の森林の木々が明らかに進行方向へとなぎ倒されており、それがゆっくりと森を押しのけるように前進してきたことは明白であった。
「こっちに向かってきてるね」
「そのようだな」
「ところでグリッドが荷物をまとめてたようなんじゃが」
「大丈夫でしょ。今ジェシカが向かったから」
逃げ出そうとするグリッドをジェシカが引きずりながら連れ戻している玄関ホールに、オークたちが白旗を掲げながら現れたのはそれからしばらくしてのことだった。
オークたちの言葉は聞き取りづらかったが大筋は理解できた。山のふもと、物資と兵員をまとめて大移動を開始しようとしている妖魔の軍団へと戻っていくオークたちをドワーフたちと人間は無言で見送った。
短くなった日の終わり、食堂の大テーブルには、新鮮な野菜を特製ソースで味付けしたサラダや焼いた紅芋などが並んでいた。それらはビール樽と一緒に届いた物資だった。ドワーフと暮らすうちにいかなるときも食事だけは欠かさない習慣を覚えたリョーマはドワーフたちとそれらを胃袋に収めながら会話に参加した。
「要は大森林の中央にある妖魔の陣地の跡地まで行けばいいわけだね」
「迷惑な話だネ。自分たちで扱いきれないものを呼びだすなんてサ」
「それだけ俺たちが脅威だったということだ。光栄な話だな」
「結果、妖魔たちの本陣は退いたわけじゃし、災い転じて福と成すじゃな」
「福と成してないですよおお! なんで皆さんそんな落ち着いてんすかああ!」
段階を踏んで強大な妖魔たちと相対してきたことで知らずのうちに感覚がマヒしていた4人と異なり、いきなり数々の人知を超えた存在と見(まみ)えることとなったグリッドは頭を抱えていた。逃げ出そうにも山越えに必要な道具は全てジェシカに奪われてしまっている。
「グリッド、別にあの小山を止める必要はないんだよ」
「それは分かってますよおお! でも同じくらい大変なんでしょおお!?」
「うるさいヨ。食事のときくらい静かにしたらどうさネ」
オークたちによると、どうやら妖魔たちは禁断の秘法に手を出したらしい。四大精霊神の力を直接この世に顕現させる儀式を、多くの妖魔を生け贄に捧げることで敢行したが「チョット、字ヲ間違エタ(オーク談)」らしく制御不能な地の力が本陣を呑み込み、それはそのまま移動を開始した。
兵力と物資の約4割を失うという壊滅的被害を受けた妖魔の軍団は一時的に本国へ退却を余儀なくされた。ドワーフの城塞に訪れてその顛末を説明していったのは好敵手としての忠告である、とオークたちの伝令は告げたが、リンデルに言わせれば、万が一にもアレを鎮められる可能性があるならば全て試しておきたいという思惑からだろう、とのことだった。
「いつ気まぐれに奴らの本国に向かうか、分かったもんじゃないからな」
「いずれにせよ教えてもらえたのはありがたいがの」
「でも神竜の試練を乗り越えたのはあそこからでも見えるんだね」
「そりゃまあ見間違えようはないさネ」
妖魔たちに希望を抱かせたのはドワーフたちにもたらされたとおぼしき金色の輝き、ゴールドドラゴンの力だった。四代精霊神そのものには及ばないにせよ、その化身であればほぼ同等かそれ以上の存在であるゴールドドラゴン。その恩恵を受けた武器であればベヒモスの力をこちらの世界につなぎとめてしまっている要(かなめ)を破壊できるかもしれないと考えたらしい。
食事を終えると手早く荷物をまとめた。迫りくる黒塊を避けなくてはならないため、往復で3日はかかる見通しの旅程だった。城塞のそびえる山中よりはましとはいえ寒さは厳しい。防寒具は必須だった。残されたビール樽8個も当然全て持って行く必要があった。食料と水は言わずもがなだ。
全ての用意を整えた出発の前夜。リョーマはジェシカの部屋の扉を叩いた。怪訝な顔をしつつも招き入れたジェシカとここに来てからのあれこれを話した。そんなこともあったさネ、と笑うジェシカを相手に思い出せる限りの思い出を、なぞり直すことで固い石に跡を付けるかのように、何度も。
最後にリョーマは部屋を去る前にジェシカに右手を差し出した。静かな笑みを浮かべているリョーマに何かを感じかけたジェシカだったが、何も言わずにその手を力いっぱい握った。痛みに顔をしかめるリョーマにジェシカが声を出して笑う。その痛みと微笑みはリョーマにとって何よりも(例えるなら口づけをするよりも)特別で忘れえないものだった。
5人は次の日の朝に旅立った。食料と水、防寒具と燃料、残ったビール樽全て。それらを荷台に積み上げ、かわるがわる引いて行く。一行は落ち着いていた。二度とこの城塞に帰って来れないかも、などと口に出しては一向に無視されていたのはグリッドだけだった。リョーマはその考えを口にしなかったからだ。
2日の行程の果てに一行は妖魔の本陣に辿り着いた。
そして最後の戦いの火ぶたが切っておとされた。
ベヒモスの強さはゴールドドラゴンをわずかに上回る程度。竜撃砲のアドバンテージが得られないことを考えると強敵ではあるが、今回のプレイではそもそも竜撃砲に改良を加えていないため、大した差ではない。
3個のゾロ目が出ればそれをユニゾンに回すし、3個のゾロ目が出なかった場合も、残されたビール樽8個があるおかげで、サイコロ4個で8以下が出ればそれだけで足りるし、サイコロ3個で8以下ならそれを樽爆弾3個に回し、残りのサイコロ2個がゾロ目か8以上で足りる。
残り樽数が多いせいで場合分けが多いな。とりあえず振るか……(コロコロ)……【3】【3】【3】【4】【6】か。うーん、これだとベヒモスの強さちょうどには出来ないかな。
とりあえず【4】と【6】だけ振り直そう……(コロコロ)……【1】【1】。微調整できる目が出てくれた。これで【3】【3】をユニゾンに設置、【3】【1】を樽爆弾に設置、【1】を白兵戦に回してちょうどだな。
これで全ステージを終了。「達成点の合計点によるスコア:210点」「勝利したステージ数によるスコア:100点」「0回未満の敗北によるスコア:200点」により最終スコアは510点。
一行がベヒモスの力を封じることに成功してから1ヶ月が経ち、季節は真の冬になっていた。砦の外から名も知らぬ獣の遠吠えのように聞こえてくるのは凍えるような強風。この時期、残されたドワーフが城塞を守る相手は厳しい自然だった。
寒々しい玄関ホールの外に通じる扉がわずかに開いた。入ってくる外の冷たい空気と吹き付ける雪を最小限にすべくすぐ閉じられる。その隙に小さい身体をねじこんだ人影は自身に降り積もった雪を、溶けて身体を冷やす前に急いでふるい落とした。
「南の城壁よしと……」
ジェシカは小さく呟いた。普段通りの大声は静かな砦の中に無駄に大きく響く。
あれからリンデルはこの地で鍛えた腕を振るうべく新たな戦場を求め旅立った。カルガンは本国に戻り武術指南として若手を鍛えているらしい。グリッドは竜の証のおかげでかなりの高待遇を得られているとのことだがそれに胡坐(あぐら)をかいているのが不安でならない、というのはカルガンからの手紙にあった言葉だ。そしてリョーマ。
「やっぱり1人で管理するにはちょっとデカすぎる砦さネ」
疲れたようにジェシカはため息をついた。初めてリョーマと出会うその日までは、辺境の砦ということもあってたった1人で城塞を守っていた。今と同じように、たった1人で。
当時はまだ夏の気配も残る季節だった。外を見回ることも見張り台に立ちつくすのも大した労苦ではなかった。それで気が抜けていたのだろうか。いつのまにか妖魔の本陣が築かれ、援軍を呼ぶのが間に合わなかった。放棄する屈辱を負うか、戦って死ぬかの2択を迫られていたジェシカに、新たな選択肢をもたらしてくれたのがリョーマだった。
1階の食堂で暖炉に薪を足しながら初めて出会ったリョーマは人間にしてもあまりに細く、今にも折れてしまいそうな枝を思わせた。それからの数ヶ月に及ぶ砦の生活の中で随分と身体も鍛えられたはずだったが、それでも見た目の頼りなさはあまり変わらなかった。
頼りになったのは腕っ節じゃなかったよネ、とジェシカは鍋の準備をしながら懐かしげに目を細めた。それでも、と眉をひそめる。いくらなんでもあれじゃ細すぎさネ。
そのとき階段から、下りてくる足音と疲れ切った声が聞こえてきた。
「腕立て50回と腹筋50回、廊下の30往復、終わったよ……」
「思ったより早かったネ。じゃあもう1セット追加」
「え」
愕然とするリョーマにジェシカが顔をしかめる。
「え、じゃないヨ。まだアタシに腕相撲で3回に1回しか勝てないくせに」
「そりゃそうだけどさあ」
せめて水だけは飲ませてよ、と食堂の上に並べられた2人分の食器から杯を取り上げる。鍛錬に専念するために城塞の管理をジェシカ1人に任せているという負い目があり、リョーマも本気で休もうとは思ってはいなかった。加えて、少しずつ強くなっていく実感は確かに充実したものではあった。それでもジェシカの鍛錬の方針に疑問がないわけではなかったが。
「鍛えるのはいいけど、腕相撲の練習の時間はさすがに長過ぎない? 趣味?」
「だってアタシの父さん、腕相撲で勝てない相手は絶対に認めてくれないし」
「認めるって何を」
疲れ果てた様子で椅子に腰を下ろしたリョーマが発した問いに、なぜか耳まで赤くしたジェシカは怒ったように「ほら、さぼるんじゃない!」と2階へと追いやった。
怒られた訳も分からずにリョーマは水を一気に飲み干すと再び2階へと駆け上がった。それは出来ることをするために、出来ないことを出来るようになるために、そして、少なくとも好きな相手に抱きしめられただけで音を上げたりしないようになるために。
<エピローグ>
ここは世界の北、夏は短く冬は長く厳しい。海には無数に浮かぶ島々。その中でも特に大きな島々にはそれぞれ黄金の竜が住まうという。
それらの中の1つ、多くの種族が縄張りを争っている特に巨大な島の西部では、ドワーフと妖魔が南北に伸びる山脈を挟んで争いを続けている。
島全体と全ての種族を巻き込む100年の戦乱が始まるのはそれから数年ののちのことだったが、その中でリョーマとジェシカが担った役割については、また別の物語となる。
(終わり)
<そして、もう1つのエピローグ>
午後の授業を終えて部室に入ってきた高田は、一番乗りと思いきやOBの桂木がソファに寝そべっているのを発見して顔をしかめた。
「先輩、ホントに大学行ってるんすか」
「んー。相変わらずご挨拶だなあ。行ってるよ、ちゃんと」
後輩の言葉に身を起こし、大きく伸びをする桂木を無視して、高田はテーブルの上の紙束を調べた。週末に遊ぶ予定のゲームに必要な用紙を回収しておくためだ。しかし目的のブツを見つけたと思いきや、彼は困惑した様子で用紙をまじまじと見つめた。
「あれ? まさか先輩、俺のキャラクターシートの情報、消しました?」
「消さねーよ! そもそもお前、いつもボールペンで書いてるじゃねーか」
「いや、今週末のクトゥルフで使う予定だった高校生のデータが消えてるんですよ。まあ、名前と能力値以外は、この部に所属してるって設定くらいしか書いてなかったんすけど」
「知らねーよ、そんなこと」
「あ、そうそう。ちなみに、自慢じゃないっすけど、同じ名前をつけたキャラで先日ゴールドドラゴンを倒しましたよ!」
「ホンットに自慢でもなんでもねえよ、それ! 俺の脳内にいらん情報をインプットするな、ただでさえ容量少ねーんだから! つーか、常識的に考えて、別のキャラクターシートに書いたんだろ」
「いや、絶対これですって! ほら、ここにコーヒーのしみが!」
「しみ付けた時点で使うなよ!」
「味があっていいじゃないっすか……コーヒーだけに」
得意げに笑みを浮かべる後輩相手に、うわ殴りてえ、と思いながら桂木が立ち上がる。どうせ別のキャラクターシートと見間違えているのだろうと乱雑に散らかったテーブルの上を見回した。そして別の何かに気づいた。
「あれ? なんだよ、ドワーフの城塞、こんなところに置いてあるのか。ちゃんと遊んでくれよ、面白いんだって」
それは彼が先日のゲームマーケットで購入してきたポストカードゲームだった。1枚50円だったので、10枚を500円でまとめ買いし、そのうちの数枚を部室に寄付していったのだ。高田は少しばつの悪そうな顔をしつつ、手にした記入のないキャラクターシートをひらひらと示した。
「あ、すんません。昨日、きっと誰かがテーブルの上を片づけたときにこれと重ねたんすよ。こないだまで重なって隠れてたの分けておいたはずなんで」
「そっか。ん? あれ? おかしいな」
「どうしたんですか?」
「乱丁かな。なんかイラストが他のと違ってる気がする」
ポストカードの体裁をとっているそのゲームは、宛先を書く側の下半分を「ドワーフの城塞」のルールテキストが占めており、そのテキストボックスの上には砦と7匹のゴブリンのイラストが描かれている。彼が指し示したのはその砦だった。
「ほら、砦のインクがかすれて、城壁に誰か2人が立ってるみたいになってる」
「それ1枚だけっすね、そうなってるの」
「こっちはお下げがあるから女の子っぽいな」
「じゃあもう1人のちょっと背が高いほうが男の子っすかね」
そこで他の部員がぞろそろと部室に入ってきたので、2人は会話を切り上げて、テーブルの上をあらためて整理して脇に寄せた。せっかく人が集まったのだから何かボードゲームでも遊ぼうと考えたからだ。
その後、そのとき見かけた乱丁とおぼしき「ドワーフの城塞」のポストカードはいくら探しても見つけることは出来なかった。しかし高田も桂木もすぐにそのことは忘れてしまった。
遊ばないといけないゲームも、救わないといけない世界も、倒さないといけない敵たちも、食べさせないといけない家族たちも、まだたくさん残っていたからだ。
(本当に終わり)
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